ちょんまげ似合う年頃
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時代劇 3
※大雑把な話・流れ

「あの藤七って親父は油断なんねえ。
二人はたぶん知らねえと思うんで・・・・」
思わせぶりな口ぶりに三左衛門は訝って、
「おめえは何か知ってんのか」
「殿が殺されるしばらく前に、
あいつは殿から金借りてんです」
「藤七が? ふむ、で、幾らか知ってんのか」
「二百両と聞きました」
「二百両!?」
「それも二度、です」
「二度? なぜだ・・・・殿の御屋敷については事前に
受け取っているし、用水路は・・・・御家来が率先して
工事に取り掛かっていたはずだぞ」
「事情は俺も知りませんが、立て続けに大金を無心するのは
怪しいと思いまして、これを機会にちょいと確かめたいと
思いまして・・・・」
「うむ・・・・それはそれとして、もうすぐ二人も戻って来る
だろうし、こっちゃ金の工面が上手くいけば
文句はねえからなあ」
「二人の性格は俺も知ってます。二人じゃたぶん
藤七の親父には通じません」
「どういうこったい」
「ですから、俺が確実にまとまった銭を
持ってこようと思いますで」
「おいおい、二人に頼んだのは俺だぜ、
俺が決めたことは間違いだってのかい?」
「頭に落ち度はありゃあせん。
二人は真面目で気のいい奴です。
だが、事情を知らねえし、それじゃ足りねえ」
「なんでぃ、おめえなら出来るってか」
「二人がなんとか笑顔で大金を持ってきたらよし、
小銭なら失敗てことで、失敗になってもかまわんように、
俺も行かせて下さい」
銀十郎は一行と共に、次郎太の言を静かに聴いていたが、
「おい次郎太、おめえまさか逃げるんじゃねえよな?」
「なに?」
「藤七が怪しいのはみんな知ってるこった。俺からしたら、
おめえも油断ならねえ。いつも腹に一物って感じだ。
何たくらんでんだ?」
「たくらんでねえよ、今言った通りだ。二人より多めに
持って来てやるってんだ。心配ならおめえも来るか」
「ふん、断るね。俺は逃げねえよ」
「わからねえ野郎だな」
次郎太は再び三左衛門に、
「俺も道には詳しくねえんで、
半月程かかるかもしれませんが、
必ず戻りますんで、先に行って下さいまし」
「おい、おめえまさか・・・・妙なこと考えてねえか?」
三左衛門は訝しげに、
「やめとけよ、余計なことすりゃやっぱり小栗達は、
なんてことになりかねねえぞ」
と強く諌めたが、次郎太は一行から離れると振り返って、
「土産持って来ますんで」
次郎太は軽い会釈をすると来た道を戻って行った。

・・・・

薩長を主軸とする東征軍、官軍は、奥羽鎮撫総督として、
左大臣九条道孝、副総督三位沢為量(さわためかず)、
参謀少将醍醐忠敬、下参謀として薩摩藩士の大山格之助、
長州藩士の世良修蔵が五百名程の兵と共に海路で仙台へ
上陸した。
あくまでも戦を避けたい仙台藩と米沢藩は、閏四月十二日、
会津藩征伐のために仙台に着陣した東征軍に、仙台や
米沢藩など大名が連名する会津藩の救済嘆願を再三届けるが、
妥協を考える九条ら公卿をも脅す勢いで、世良修蔵は強硬に
武力討伐を主張し、願いは却下された。その上、会津討伐を
開始するよう仙台、米沢、秋田、南部ら各藩に強く催促した。
これは京にいた大久保一蔵(利通)や桂小五郎(木戸孝允
きど たかよし)の命令でもあった。
漁師だった世良は高杉晋作の奇兵隊に加わり、その後は
桂の腹心となって長州軍の一角を担うまでになっていた。

会津藩は京都守護職として京の都で新撰組を組織し、
散々に長州藩士や関係者を取締った過去がある。
薩摩の大久保も強硬だったが、桂の会津への憎悪もまた
徹底していた。
「慶喜が無理なら容保の首だ、城も領地も召し上げる」
と散々主張していた。
「降伏するなら首を差し出せ」
と、世良もまた桂と同じく会津抹殺を望んでいた。

仙台・米沢共に、西軍傘下として会津を攻撃するか、
会津側に付いて西軍を撃退するか、藩論は分かれ、
苦渋の決断を迫られた。
一方、謝罪も恭順も拒否され、降伏の条件として
容保の首と城と全領地を要求された会津藩の家老達
上層部は、なす術も無く迷っていた。
慶喜の恭順が認められて後、西軍の憎しみは会津に
向けられている。要求通りにするか、戦って事態打開を
図るか二つに一つだった。

これに一策を講じたのが会津藩筆頭家老の梶原平馬だった。
天保十三年(1842)、内藤介右衛門信順の次男として
会津若松に生まれ、家中の梶原家に養嗣子となり、
祖先から伝襲の平馬景武(かげたけ)を名乗った。
年は三十にもならない若者だが、剛毅と知性を
兼ね備えた武士である。
会津を囲む東北諸藩は敵となる理由はない。また、
越後とも物流で深い関わりがあり、会津藩の飛び地もある。
その隣には長岡藩もあって良好な関係を築いていた。
このまま戦となれば、物資運搬は陸だけでなく海も
必要になる。
海への玄関を確保するためにも日本海側、特に隣の
越後諸藩とも連携する必要を感じた平馬は、
長岡藩の河井継之助(つぎのすけ)にも協力を求めた。
河井は若くして藩財政立て直しに励んで大赤字から黒字に
転換させた実績があり、藩主牧野忠訓(ただくに)の
信頼を得て家老となって、財政面から軍事まで一手に
引き受けて藩の建て直しと強化に努めていた。
河井も無責任な慶喜と幕府に憤慨し、
「卑怯な奴らばかりで情けない限りだが、
うち(長岡)まで同じと思ってくれるなよ」
と、追い詰められた会津に理解を示した。

軍備増強真っ最中だった河井は江戸藩邸の高価な什器や
書画骨董などを悉く数万両の金に換えると、平馬を連れて
横浜の武器商人シュネル(スネル)兄弟から、最新の
元込め銃数百挺とガトリング砲二門を買い込んだ。
当時日本には三門しかなかったが二門が河井の手に移った。
平馬もまた藩から金を集めてライフル銃七百八十挺と
約二万ドル分の弾薬を買い込み、共に外国船を使って
新潟港へ運んだ。

シュネル(スネル)兄弟の兄ヘンリーは万延元年(1860)
に日本と通商条約を結んだプロシアの総領事書記官、
弟エドワルドはスイス総領事書記官だったが、
元治元年(1864)、横浜でフランソワ・ペルゴと共に
スイス時計の輸入商社シュネル&ペルゴを設立する。
しかし、武器販売を優先しようとしたことからペルゴと
対立して商会は解散し、独自に武器商人として動いていた。
平馬と河井は彼らの存在を惜しんで、
新潟を拠点にすることを勧めた。
「江戸はもはや西軍の庭に過ぎない、
その立場を活かして会津や越後に協力して欲しい」
と熱心に頼み込んだ。
兄弟にしても、西軍優勢の情勢は分かっていたが、
東北越後諸藩が一丸となれば戦局はどう変わるか
分からない。西軍のごり押しに追い詰められた会津方の
助けとなって形勢逆転ともなれば、今後のプロイセンとの
関係強化につながり、両国のためにもなる。

慶応三年(1867)には、エドワルドは新潟港を拠点に
エドワルド・シュネル商会を設立し、
長岡藩や会津藩など東北諸藩への武器提供した。
それを機に兄ヘンリーは平馬の紹介で、会津藩主・
松平容保の要請を受けて軍事顧問を務め、容保より
平松武兵衛の名を与えられて屋敷も提供され、
日本人女性を妻とした。
更に米沢藩の軍事顧問も兼務した。
今や不利な状況になりつつある旧幕府側、その要の会津と
周辺諸藩へのヘンリーの協力に不審に思った西郷頼母ら
藩の者達が理由を尋ねると、
「トクガワ(会津)には責任とプライドがあります。
軽薄なサッチョーは信用できません。トクガワのため、
日本のために協力します」
と笑顔で答えた。

ヘンリーがプロシア人なのか、オランダ人なのかは
不明であった。
出身国を偽るのは当時よくあったようで、良かれ悪しかれ
しがらみから逃れる手段として使われたらしい。ともかく、
薩長に与する英国とは利害対立もあり、一線を画す立場
なのだろうと推測もあって、外国人のヘンリーには、
無責任な武器商人として不信感を持つ藩士もいたが、
その真摯な献身ぶりに、次第に同志としての信頼を
得るようになり、
「(容保)殿が厚遇するのも合点が行った。
西洋にも武士のような者がいるんだな」
と、徳川方一藩士とまで認識されるに至った。

東征軍が仙台へ上陸すると、大山格之助は、港の商船と
その積荷を没収し、酒や陶器などを部下に分け与えた他、
それらを周辺の商人などに強引に買い取らせ、
数千両を儲けた。
また、世良は官軍参謀として自身を誇り、東北全体を下に
見る傲慢さがあるだけでなく、あくまでも会津、出来れば
徳川に親しい東北諸藩全てを武力で叩き潰したいとの
執念があった。
その傲慢や憎悪は軍の風紀にも表れ、仙台城下では
西軍将兵による婦女暴行など狼藉が頻発していた。

そのため仙台藩では「世良を斬るべし」との声強く、
何の恨みも無い会津に加勢すべしとの意見に傾き始めた。
その後、世良が大山に送った密書が、使いに動いた
福島藩士・鈴木六太郎によって
「奥羽皆敵と見て逆撃の大策に至度候に付」
という内容であることを仙台藩に報告した。
世良、あるいは薩長からすれば、東北など化外の地であり、
逆らうなら総て武力で討ち滅ぼせばいいというわけである。
これに激怒した藩士の瀬上主膳、姉歯武之進は、奉行の
許可を得ると、世良に天誅を食らわせんと計画を立て、
閏四月二十日(六月十日)未明、瀬上主膳、姉歯武之進、
鈴木六太郎、目明かしの浅草屋宇一郎ら十数人で、
福島城下の旅籠金沢屋に滞在していた世良を襲撃した。
慌てた世良は二階から飛び降り重傷を負うが、
構わず捕縛されて同日、阿武隈川河原で斬首された。
世良暗殺の報は東北諸藩重臣の集う白石城での
会議の場にも届いて、
「悪逆非道の不逞藩士に天誅が下った、
真にもって愉快痛快」
と、万歳を唱えて喜んだ。

阿部氏十万石の白河藩は西軍傘下となり、白河城は仙台、
二本松、棚倉の各藩が守備についていたが、重要拠点である
白河城を、宇都宮にある西軍本隊が来る前に確保して
おくべきとの仙台藩の助言を受けて、会津藩は閏四月
二十日、世良死亡の報で、同日の内に城を奪い返した
(白河口の戦い)。
このとき、守備側の仙台、二本松などは戦わずに城を放棄、
撤退した。官軍に逆らうわけにもいかず、さりとて従うには
承服できない憤懣やるかたない仙台藩と、
それを知る各藩の、会津への共感と誠意だった。
それは奥羽列藩同盟として結実した。

その後、北陸道軍が会津征討のため越後長岡に近い
小千谷(おぢや)(現・小千谷市)に迫ると長岡藩では、
世襲家老の首座・稲垣平助、先法家・槙(真木)内蔵介、
以下上級家臣の安田鉚蔵、九里磯太夫、武作之丞、
小島久馬衛門、花輪彦左衛門、毛利磯右衛門などが
非戦恭順を主張した。
河井は西軍の横暴に屈するのは潔しとせず、彼らの拠点と
なっていた藩校・崇徳館に腹心の鬼頭六左衛門に小隊を
与えて監視させてその動きを封じつつ、米国のモンロー
主義に影響を受けたとされる獨立特行論を主張した。
恭順で済ませることなく独自性を発揮し、洋式軍隊を
編成して強力な武力を背景にして、西軍と東北諸藩との
平和的解決を進め、ダメなら越後より西軍を駆逐してやる、
という思いで西軍との談判を申し出た。

五月二日、河井は小千谷の西軍本陣に乗り込み、近隣の
慈眼寺(じげんじ)で会談となった。河井の相手は
西軍幹部の黒田や山県ではなく、土佐藩士の岩村精一郎
(高俊)、長州藩士の杉山荘一と白井小助、薩摩藩士の
淵辺直右衛門(ふちのべ なおえもん)という、いずれも
二十を越えた程度の若者だった。
(見くびられたか・・・・)
河井は西軍が長岡藩を、北の一弱小藩と見ていることを
察したが、あくまでも丁重に奥羽への侵攻停止を訴えた。
「願わくば今しばらく時間をお与え頂きたい、
必ず会桑二藩を説得して御覧に入れます」
しかし岩村は最初から居丈高で、
河井を理解する気は無かった。
西軍側代表として臨んでいる岩村は、代表という自負と、
交渉で侮られてはまずいという警戒が先に立った。
「そんな都合のいい誘いには乗らん。長岡も降伏恭順して、
会津藩討伐の先鋒にならなければ認めん」
口調も強く、あくまでも要求するのみである。
「わざわざ戦などせずとも、会津は官軍に盾突く理由など
ござらぬ、先年の京都守護職での七年に及ぶ忠勤ぶりで
明らか」
「黙れ、その方が申すこと、
戦備を整えんとする謀略であろう」
と、取り付く島が無い。
(このクソ坊主めが・・・・)
河井は観念し、交渉は僅か四半刻(しはんどき・30分)
で決裂した。
これにより長岡藩は奥羽列藩同盟に加わり、
奥羽越列藩同盟となって、二日後に北越戦争へと
発展した。

・・・・

次郎太は来た道を戻るだけでなく近道を通り、あるいは
遠回りを繰り返して、一時眠った以外は何も食わず、
山中に身を隠すように歩き続けた。権田村に戻ったのは
二日程後、夕刻迫るときだった。
東善寺に着くと住職が出迎えた。
「おお、次郎太さんも無事だったか、何よりだ・・・・しかし、
おまえさんも御夫人の一行に従ったのではないかね」
「へぇ、銭が足りねえってんで、途中で戻って参りました」

次郎太の安堵の顔は汗と埃で汚れ、雑草による
無数の傷を手足に負い、着物も臭いを漂わせていた。
住職は次郎太を見て、
「おまえさんも随分無理して来なさったな。
何か食ったかね。有り合わせでよければ支度しよう。
上がりなされ」
「へぃ、ありがとうござんす、まずは水を頂戴したく・・・・」
台所に案内された次郎太は、甕(かめ)の水を柄杓で
何杯も飲むと、ようやく一息ついた。
台所から続く板敷きの囲炉裏の座敷に腰掛けてわらじを
脱ぎ、勧められた桶の水で手足を洗い、部屋に上がって
隅に正座した。
住職が台所で飯を盛っている中、次郎太はようやく村へ
着いた安堵感と、久々の東善寺に気を許したのか、
辺りをぼんやり眺めた。
やがて住職が飯の椀と漬物の小皿を乗せた膳を運んで来て、
「こないだは房太郎さんと兼吉さんが来ておったが、
二人も同じ調子だったよ」
次郎太は合掌して飯をかき込んだ。
「困っておるようだったので幾らか渡したが、
集まらなんだかの」
「へぇ、それが、二人がまだ戻って来ないうちに、
じれったくなって俺も来てしまいまして」
「そうか・・・・村々へ廻って会津に発ったはずだが、
行き違いかもしれんな」
住職は茶を膳に差し出して、
「事情はもう存じておるな? 殿にはまったく気の毒な
ことになってしまったが・・・・」
次郎太は飯を食い終わると、茶を椀に入れてすすり、
「西軍の連中はどうなりましたか?」
「うむ、殿と御家来方が処刑されると、後を高崎藩の
御役人に任せて移動したようだな。東毛(群馬南東部)を
進んで旧幕府の残党を取り締まりながら江戸へ
向かうらしい・・・・で、河原には行ったかね?」
「いえ、まだ・・・・」
「殿と御家来の御首はしばらく土手に晒されたが、
殿と又一様だけは、先に向かっている総督の元へ持って
行ってしまわれた。どこへどうするのか分からぬ」
「では、御家来の御遺体は?」
「少し離れたところに埋めて弔った。時期が時期だで、
大っぴらには出来んがな。おまえさんも会ってくれるかね」
「へぃ」
寺の裏にはひっそりと、殺された家臣六名の土盛りされた
墓が並んでいた。次郎太にも顔馴染みの者ばかりである。
まだ皆若く、これから小栗の下、村や国のために重責を
担って活躍するはずだった者が六名も失われた。
更に、その傍らには首の無い小栗と息子又一の墓があった。
家臣達はとりあえず首をつなげて埋めてあるが、
小栗と又一の首は西軍の手にある。
次郎太は膝を着き、しばらく黙ったまま目の前に並ぶ新しい
土盛りを見ていたが、合掌を済ませると立ち上がって
寺に戻った。
「和尚様、手前これにて失礼の程を願いたく」
「これからどうする? 村の者もなかなか協力は難しかろう」
「他に当てもありますんで、なんとかします。
機会ありましたら、また改めて御礼に伺いますので、
そのときまで和尚様もお達者で」
「そうか。では、御夫人方によろしくな」
次郎太は深々と頭を下げると寺を出て行った。

日が暮れて辺りはだいぶ暗くなり始めていた。
次郎太は小栗の処刑場所の河原へ向かった。
そこでは数人の村人が立ち話をしている。
主従が斬られたらしい辺りまで行くと、血の痕が
そこかしこに残っている。
小栗主従の首が晒された跡の土手には、生々しく
八本の竹が雑に刺さっていた。
既に西軍も各藩の姿も無く、その場に集まっている数人の
村人は、ある者は合掌し、花を手向ける女性もいる。
「むごいもんだな」
老いた村人がぼっそと言った。
「西軍が強いんじゃしょうがねえさ、幕府が無くなって
西軍が代わりになるらしいからな」
「こんな無法がまかり通るんじゃ、
どんなことになるやらな」
ささやき合うような村人の会話を横に、次郎太は無言で
晒し首の跡を見ていたが、踵を返して来た道を戻って
行った。着いたところは佐藤藤七の家だった。

佐藤藤七は藤岡市本動堂(もとゆるぎどう)の出身で、
小栗の父忠高に認められて、権田の名主佐藤家に
婿入りした。
小栗家が忠順に代わってからも名主として信任され、
名を勘兵衛から先代の藤七を名乗った。
安政七年(1860)(三月以降万延元)一月二十二日、
遣米使節で目付役の小栗の従者として随行した藤七は、
五十四歳にして始めて海外を経験し、地球を一周して
九月二十七日に帰国した。
この体験をもとに書いた通称「渡海日記」と
「諸用留(とどめ)」があり、渡米の際して様々な情報、
知識を細かく書き残している。
几帳面な藤七は商才もあるらしく、小栗の庇護の下、
手広く商売も行い、手堅く稼ぐ抜け目無さがあった。
このため村の収益にも貢献していた。

家で出迎えたのは藤七。
「次郎太、おめえ会津へ行ったんじゃねえのか」
玄関に現れた次郎太に、藤七は驚いた顔を見せた。
次郎太が静かに、
「房太郎と兼吉は?」
と尋ねると藤七は、
「ああ、先日来とったな。路銀が足りねえってんで、
村を廻ってると言っとったが、どうなったか・・・・」
「幾らか渡した?」
「一両ずつは持たせたが・・・・」
「桁が違うんでねえのか?」
「なに!?」
次郎太の咎めるような物言いに、藤七が苛立つのも束の間、
次郎太は脇差を抜くと、土足のまま上がり込んだ。
「あ、こらっ、次郎太」
後ずさりする藤七の眼前に次郎太は脇差を突きつけ、
「おい、殿から借りた金あるだろう、出せ」
と、ぶっきら棒に言った。
「おめえ、何やってんのかわかってんのか、脅すのか」
「殿が殺されるのが分かっていながら引き止めたな。
おめえも斬られてみるか」
以前のように気遣う相手ではないとばかりに、
次郎太は不遜な態度で脇差を突きつける。
藤七が後ろに下がり移った居間には、妻とまだ幼い倅の
勘十郎がいた。
次郎太が二人に目をやると、藤七は慌てて、
「待て、次郎太、おめえは殿の家来だろ、
こんなことやっていいのか、凶状持ちになるつもりか」
「殿はもういねえ。西軍からしたら俺ぁ凶状持ちだろが。
殿とおんなじだ」
尻餅を着く藤七の首元に、なおも脇差を突きつけ、
「おめえが殿から二度大金を借りたのは知ってるよ。
出せ。それとも二人の前で斬られるか」
勘十郎を庇うように抱いていた妻は必死に、
「次郎太さん、やめて下さい、殺生は勘弁して下さい!」
と叫ぶように助けを乞うが、次郎太はそれを
かき消すように、
「出せ! 金返せ!」
と藤七に怒鳴り、脇差を峰(背)に転じて首に押し付けた。
「待て! 待て、わかった、出す、金は出すから、
ちょっと待ってくれ」
藤七は這うようにそこから奥の部屋を移り、押入れを開ける
と、下にある重厚で高級そうな箪笥(たんす)の、
四つのうちの一番下の引き出しを開けた。
そこには、びっしりと小判が四列、隙間無く並んでいた。
「・・・・この野郎、やっぱりそうだったか」
「違う、これは必要があって借りたんだ、
貰ったわけでねえし、これから使うためだ、
月一割の利息を払う約束だった」
「なんに使う」
「用水路、用水路で、村人を只働きには出来ねえ、
まだかかるで、その手間賃だ」
「他は?」
「他・・・・」
「この村に用水路作るんに二百両もいらねえ。ましてや
また二百両借りるわけが無ぇ。隠すとおめえだけじゃ
済まなくなるぞ」
「俺の・・・・本を出すんで協力して頂いた」
「本?」
「おめえが殿のとこへ来る前、殿は米国へ外交に行かれた、
そんとき、俺も着いて行ったんだよ、おめえも聞いたこと
あるだろ、そのときの記録を俺は細かく書いた、それを
江戸のでかい本屋に頼んで世間に広めようと思ったんだよ、
売れれば何倍かにして返せると思ったんだ、うそでねえよ」
「おめえは商売で儲けてるって聞いてたが」
「色々やってるよ、稼ぎが増えれば殿へも付け届けが出来る、
村で困れば融通が利く、村のため、殿のためだ、
悪いことはしておらん」
「で、房太郎と兼吉には渋ったか」
「あ、あれは・・・・」
焦りが高じて言葉が出ない藤七に次郎太は、
「殿がいなけりゃ返さなくていいわけだ、
残った奴らなんぞ知らねえってか」
脇差で首をぐいぐい押される藤七は、
「違う、全部は出せねえ、十両は使っちまった、
江戸の本屋、商人に渡してんだ、往復の飛脚にも使った、
用水路にかかるんで村人にも少し渡した、ほんとだよ」
「殿の家来は全員死んだわけじゃねえ。
いなくなるとは限らねえ。おめえが逃げたら
追ってやるよ。銭を渡すか死ぬか、選べ」
「わかった、渡すから、助けてくれ」
藤七は、次郎太が投げ落とした風呂敷を広げると、
そこへ小判を移した。

次郎太は家を出ると藤七に、
「どうせまだあるんだろうが、
殿や御家来の供養に使ってくれよ。
不義理したら遠慮なく斬ってやるからな」
持ち出した金は約四百両。風呂敷に入れるには重い。
背に担いで歩き出した。

・・・・・

次郎太が次に姿を見せたのは高崎城下だった。
目当ては居酒屋。そこにもしかしたら、あの男がいるの
では、という思いだった。
あの男とは、櫻井衛守(えもり)。小栗が殺される数日前、
櫻井はひょっこりと現れて金を貰っていた。理由は、
「これから会津に行って西軍に備えたい。ついては、
僅かだが仲間も出来て金がかかる、こんなときばかりで
心苦しいが、なんとか路銀を工面願いたい」
櫻井は、江戸の本所に屋敷を構える三百五十石取りの
旗本であり、弓の名手とも知られ、小栗の知人であった。
江戸開城が決まり、西軍が関東に迫っているとの報に、
旧幕府の旗本は、ある者は慶喜に同行し、ある者は江戸を
出て幕府残党として関東各地に散在し、ある者は会津を
目指し、またある者は行方不明となっていた。
櫻井も会津で抗戦を覚悟の身として、小栗に頼み込み、
小栗は餞別として二十両を渡していたが、四日程すると、
またも来ていた。
几帳面で一面厳しい小栗がこれを怪しみ、断るかと
思いきや、藤七同様に、更に五両を渡している。
このやり取りを聞いていた次郎太は、その後小栗に、
「二度も来るのは変な方ですね」
と語ると、小栗は、
「余計なことを申すな・・・・あの者も大変なんだろう。
金金金、ほんに世の中金ばかりよ」
と、つぶやいていた。
とかく直言居士として幕府内で煙たがられ、嫌う者も
多かったと云われている小栗が、意外にもなあなあの
印象を与えるような言動が多いようにも思われた。
丸くなったというべきか。
「殿はクビになったで、気抜けしちまったんかな」
次郎太には合点が行かなかったが、
小栗がその心情をいちいち語るわけもない。
次郎太はゆっくりもしていられないが、放っておくことも
できないという思いで、城下の店を捜した。

次郎太は櫻井に、藤七と同じく胡散臭さを感じていた。
それは、櫻井が小栗のいる寺を出る際、見送りに出た
次郎太に対して、櫻井がやけに偉そうに見えたことに
あった。人によっては威厳がある、自信があると良く
捉えられることではあったが、次郎太は虚勢を張る者が
嫌いである。



次郎太は長年人の下について食いつないで来た。
多少卑屈さや疑い深さも自覚している。
こちらは一家来、自分に媚びる必要はないにしても、
金を借りに来た奴が、堂々と振舞うことに違和感と
反発があった。
(この期に及んで威張ってんのか、この野郎)
侮蔑の念が湧いていた。
城下の居酒屋は数件程度で、すぐ廻れば済むが、
旅籠(旅館)にいるかもしれず、
「元旗本の御武家の方、櫻井様は・・・・」
と、一軒ずつ聞いて廻った。
しかし、どこにもいない。
「やっぱり会津へ行ったんかな」
城下の外れ、人通りの無い店の並ぶ通りを歩いていると、
目の前の小さな居酒屋から一人の武士が出てきた。
見覚えのあるその顔こそ、まさに櫻井衛守だった。
「櫻井様」
次郎太は後ろから声をかけた。櫻井は振り返って、
「ん、誰だ・・・・おぅ、お主は・・・・小栗殿の御家来だな。
奇遇だな、なぜここにおるのだ」
「それはこちらも知りたいところでして・・・・
櫻井様もなぜここにおいでになるので?」
「む・・・・俺は仲間と大事な話があってな、
それを終えて一杯やっていたところだ」
櫻井は歩き出し、次郎太が続いた。
「お仲間はどちらに?」
「いや、もういないが、何だ?」
「そのお仲間にもお会いしたいのですが・・・・」
「・・・・会ってどうする」
「いつ会津へお発ちになるのかと伺いたく」
「・・・・聞いていたのか」
「以前に、我が殿とのやり取りの際に奥に控えて
おりましたので、少しばかり聞こえただけにございます」
櫻井は構わず足早に歩き、通りを曲がる。
次郎太もついて行く。
「・・・・数人の仲間と合流して会津へ向かう。江戸にはまだ
何人も残っておる故、それを放ってさっさと発つわけには
いかんのだよ」
「我が殿から二十両、数日して五両を貰って、それから
既に半月程になりますが、会津へはいつ頃お発ちに
なられますか」
櫻井の足取りが止まり、次郎太を睨んだ。
「こちらにも予定がある、詮索とは無礼だぞ」
「我が殿についてはその後をご存知で?」
「ああ、存じておる。気の毒なことだ。
仇は俺が討ってやろう」
「手前も会津へ行くところでしたが、路銀に困って戻って
参りましたので、よろしければお供致しましょうか」
櫻井は迷惑そうな表情を見せて歩き出し、
「無用だ。こちらも余裕は無い。宿へ戻る」
「二十五両、お返し願えますか」
「なに?」
櫻井の足が止まり、振り返った。
「無礼を申すな! 金は小栗殿から受けた餞別だ、
返す理由はない」
「貰う理由が無いようにもお見受けできますが」
「なんだと!? 家来といえども許さんぞ!」
櫻井が刀の柄に手をかけると、
次郎太もまた脇差に手をやる。
険しい顔だった櫻井は、身構える次郎太を見て、
「・・・・そうか、主を無くして金に困っておるわけか・・・・
なるほど、それなら仕方ない」
櫻井は袂に手をやると、一分金を次郎太の足元へ
投げ落とした。
「くれてやる。去れ」
「手前は犬っころではありませんので」
次郎太は一分金を踏みつけ、なおも構え続ける。
「・・・・二十五両、返して下さい」
「おのれ下郎、恵んでやった金を踏みつけるとは
無礼であろう!」
櫻井が抜刀する瞬間、次郎太が突っ込み、
櫻井の右手に次郎太の脇差が掠めた。
「あ!」
櫻井の右手の指二本が飛んで、刀は地面に落ち、
指からはたちまち鮮血が流れた。
次郎太は右手を庇う櫻井の首元に脇差を当て、
同時に櫻井の小刀を引き抜くと後ろへ投げた。
「きさま、なんたることを・・・・!」
「だから、金返せって言ってるだろ。
このまま斬ってもいいんだぜ」
次郎太は左手で催促する。
「・・・・わかった。渡す」
櫻井は左手で左右の袂をまさぐり、
「小判は二十三両だ。二両使った」
袂から小判を二枚、三枚と渡した。
と、櫻井は左手で次郎太の右手を掴み、血に染まった
右手を添えて脇差を次郎太の頭上へ追いやると、
そのまま次郎太の右手を左に捻り、次郎太もまた体を
左に向けて横倒しにされた。
「!」
櫻井は両手を離さず、次郎太の上から脇差をそのまま
次郎太の首へ持って行こうとし、次郎太もそうはならじと
刃を櫻井に向けようとして、左足で櫻井の横腹を何度も
蹴り込んだ。
苦痛に歪んだ櫻井の右手に次郎太が噛み付くと、
「うぁっ」
と呻き声を上げ、右手を離したところを、
一気に櫻井の首へ刃を押しやった。
「!」
櫻井は声とも言えない声を出して、
首からは血があふれ出した。
次郎太は構わず脇差の刃を桜井の首へ押しやり、
櫻井は次郎太の上に倒れ込んだ。
しばらく緊張と揉み合いで息が荒かった次郎太は、
そのまま深呼吸すると、絶命してるであろう櫻井を
どけて起き上がった。
次郎太の肩も胸元も、口の辺りも血で真っ赤に
染まっていた。
次郎太は口に入った血を吐き出すと、辺りを見回した。
裏通りの暗い中、人はおらず、近所の住民に
気づかれた様子はない。
次郎太は思い出したように地面に落ちていた小判や
一分金を這うように拾い、櫻井の胸や袂からも
まとまった小判を手にした。
「あった」
見つかれば騒動になる。次郎太は慌てながらも、
あるだけの金を取ると、足早にその場を立ち去った。

・・・・

深夜となれば店も旅館も店仕舞いとなり、町人の長屋など
も門が閉められ、城下でも月夜の晩でなければすっかり
暗闇である。
各地を廻る行商人や行脚僧などもこの時分に出歩くことは
なく、もっぱら武家屋敷を警護する辻番や、町人による
番屋の防犯消防の見廻りなどが行われているのみである。
櫻井とのやり取りに覚悟はあったため、神社の境内裏に
隠しておいた風呂敷包みを取り出し、利根川まで行くと、
辺りを伺いながら血で汚れた顔と手を川の水で洗い、
赤黒く血に染まった着物を脱ぐと川へ流した。
ついでに全裸となって膝下辺りまで川に入ると、
手ぬぐいで全身をしめらせた。
「うあ~、ちめて~」
春先でも川の水は冷たい。それでも、越後から歩き通しで
三日、埃と汗にまみれたままの身であったため、
せっかくの風呂代わりと、次郎太は手拭いで腕、首、腹、
股や尻から足まで念入りにこすった。暗い中でも腕を
こすれば垢が取れるのが見える。
「うへ~、すごい垢」
川のせせらぎだけが響く中、
次郎太は垢すりに夢中になった。
ようやくすっきりして上がると、事前に店で買っておいた
安物の着物を着て、東を目指した。
しばらく進めば、そこは次郎太にも馴染みの土地だった。

・・・・

次郎太の見る先には前橋城がある。戦国時代には厩橋城
(まやばしじょう)と呼ばれ、地元の豪族長野氏
(長野方業(まさなり・かたなり)の支城として
築城された。
天文三年(1534)の利根川本流の氾濫により、
西岸にあった石倉城の本丸・二ノ丸などが崩壊したため、
厩橋城が築城されたという。

その後、越後の上杉謙信が関東進出での上州の拠点として
活用し、武田、織田、北条と変わって、関ヶ原の戦い以降、
徳川の天下になってからは、徳川家譜代・親藩の大名が
城主となった。
家康の重臣酒井重忠が三万三千石で入城して以降、
九代およそ百五十年に渡って酒井氏の支配が続き、
慶安二年(1649)には厩橋の地を前橋、城も前橋城と
改称した。
寛延二年(1749)には、老中の酒井忠恭(ただずみ)から
越前松平家直系の、武州川越藩七代目藩主・松平直侯
(なおよし)の婿養子となって家督を継いだ松平朝矩
(とものり)が、播磨姫路藩から十五万石で入封し、
藩主となっていた。
しかし、「坂東太郎」の異名を持つ利根川は、激しい
水量をもってときに西、次に東と流れを変えて両岸を削り、
前橋城も城郭の侵食が進んで、本丸までが被害を受ける
事態となっていた。
松平氏はそれまで十度もの転封により借財多く、
修復費用もままならないため、幕府の許可を得て前橋城は
放棄され、明和四年(1767)、川越藩の川越城に本拠を
移転し、以来前橋は川越の分領として代官が置かれて、
一時は廃藩状態であったが、地元の生糸生産と貿易による
収入増に伴い、慶応三年(1867)、四年に及ぶ大規模な
改築・築城によって、ようやく松平朝矩が川越から
前橋城に戻った。

利根川には防衛上の理由で橋は架けられず、
前橋城近辺では下流に「大渡りの渡し」があった。
泳いで渡るには自殺行為であり、無理をすれば
死ぬだろうことは濁流で察しがつく。
次郎太は水浴びで冷えた体に重ね着して、
土手の草むらに隠れるように丸まって朝を待ち、
船で東岸へ行くことにした。

・・・・

前橋に戻るとはいえ、既に家は無い。父も兄もおらず、
母は娘夫婦の家に移って無縁となっている。
百姓を辞めて小作人としての立場も無く、村の人別帳、
後に云うところの住民登録から外されている。
道場での騒動から逃げ出し、博徒の世話になった
次郎太が前橋に用があるといえば、やはりその関わり、
大前田一家であった。

幕末のこの頃は、幕府の権威失墜に伴って関八州(上野・
下野・常陸・上総・下総・安房・武蔵・相模一円)の
治安も悪化し、取り締まりが緩くなりがちな江戸郊外は、
罪を犯して江戸から逃げ出した者がうろついていた。
幕府はそれまでの各藩(各大名家)や天領(幕府直轄地)、
寺領などの区別なく一括して治安維持や犯罪の捜査、
取り締まりが出来る関東取締出役(かんとうとりしまり
しゅつやく)を設置、更にそれを補うために幾つもの
改革組合村の大組合・小組合が編制され、暴徒などへの
対応の必要から、農民からなる武装足軽などを準備して
取り締まりを強化した。

しかし、各地へ派遣する役人は限られ、監視、取り締まり
対象になるべき各地の博徒・侠客やその関係者が、
目明し(道案内)として協力し、下級役人として
権限を持つという常態だった。
関東取締出役も下級武士であったが、警察権限を持つだけに
各地の侠客、商人などからの付け届け、つまりは“袖の下”
などで穏便に取り計らってもらうこともあって、通常は馬で
済むところを敢えて大名駕籠のような豪華なもので
乗り付けることもあったらしい。
そのため、地元民や対抗する一家から悪評があっても、
役人に協力すれば堂々たる身の盾となり、無報酬では
あったがやはり商人からの袖の下もあり、取り締まりに
影響することにもなって、その曖昧さが治安の危うさでも
あり、侠客、博徒が生きる上で便利な手段でもあった。
この博徒と役人の二役をすることにより
「二足のわらじ(履き)」
と云われ、役人に代わって一家の親分が「顔役」と
呼ばれて一般町人や村民に睨みを利かせていた。

・・・・

当時日本の主要輸出品は生糸、絹織物で、そのため養蚕が
各地で盛んとなり、上州もまた米作の傍ら、あるいは、
米が難しい地域は桑を植えて、家内制手工業で女性が糸を
紡ぎ、その生糸が家の大きな収入源となっていた。
結果、働き者の女性は懐も暖かく、
夫にかしずくことはない。
逆に夫が妻を頼り、その稼ぎで博打をやる道楽者に
なりつつ「うちのかかあは天下一」と自慢した。
もっとも、よそ者からすれば面白くはなく、
「どうせ、かかあにへこへこしてんだろ」
と、夫が強い妻の尻に敷かれる意味の「かかあ天下」
と解した。

そういった背景も影響があるのか、上州は上州博徒として
多くの侠客・博徒を輩出する地になり、東南部は関八州の
大親分とも云われる大前田一家が占めていた。
この一家の長、その名は大前田英五郎。
寛政五年(1793)、上州大前田村(群馬県前橋市宮城地区)
に生まれた。本姓は田島。祖父は名主であったが、
父久五郎は賭博好きで博徒になり、兄要吉も同じく
博徒になった。

英五郎が十五歳のとき、武州仁手村の清五郎が、
父の縄張りで勝手に賭場を開いた。収入源を奪う敵対行為
である。英五郎は父に頼まれるでもなくこれを追い払った。
しかし、この騒動で相手方の一人を殺し、父の許可のもと、
しばらく身を隠すべく諸国を流浪した。

文化十五年(文政元年・1818年)には、新里村山上で久宮村
(現・みどり市)の侠客であった丈八と争い、丈八を殺して
逃げた。正確には、英五郎の子分の栄次郎と和太郎が斬った
が、親分としての責任は逃れられず、これにより丈八一家と
十五年もの長きに渡って対立した。
それでも、持ち前の豪胆さと人当たりの良さ、いわゆる
「きっぷがいい」英五郎は、多くの博徒から信頼され
頼られることになり、関東一の大親分として名を馳せた。
また、争う侠客同士の仲介も多く、謝礼に貰った縄張りが
全国に二百ヶ所以上あったという。
栄次郎はその後一旦は甲州に逃げるが、考え直して上州に
戻って自首し、関東取締出役の道案内(目明し)として
役人の捜査に協力することで許されて、前橋の旅館福田屋
の養子となって関東一の大目明かしとまで云われた。
一方、和太郎は日光に逃げるが、地元のやくざと喧嘩して
素性がばれて捕まり、牢死となった。

・・・・

※回想部分
次郎太が十四で家を出て、剣術道場で小僧として下働きを
しながら剣術を学ぼうとするが、一年半で先輩の苛めに
耐えかねて、苛めた先輩三人を待ち伏せして、木刀で
滅多打ちにし、三人が死んだのか軽傷かもわからないまま
逃げ出した。その後、
「商人の小僧でこき使われるより楽に稼げるぜ」
と、前橋城下の若い博徒の言葉を頼りに賭場で雑用係になり、
その賭場を仕切る前橋の親分、上州白銀屋文之助のもと、
文之助が義兄弟となっている大胡の大前田英五郎へ挨拶に
行く際に付き添い、英五郎とも知遇を得た。
しかし賭場と言えば、上客として優遇される武士や商人、
余裕ある豪農といった堅気衆だけでなく、泡銭を増やそうと
する浮浪者、犯罪者、ごろつきの寄り場でもある。
次郎太は子供同然で一番下っ端、雑役の三下奴
(さんしたやっこ)である上に、片目で目つきがいい
ともいえず、陰気な雰囲気を漂わせていたから、
負けが込んだ客からは、
「おめえみてえな暗い奴がいるからツキが逃げちまうんだ」
などと強く当たられることも多い。
おとなしく真面目に務めを、と思うも、道場での苛め同様、
理不尽な言いがかりや、ましてや殴る蹴るなどやられては
たまらない。
客だけでなく博徒一家もピンキリであり、陰険傲慢粗暴と
いった、およそ大人として人間として、唾棄すべき輩も上役、
兄貴分に媚びへつらいながら、博徒の一員となって
食いつないでいる。
横暴な客は場の秩序のために排除されるが、
儲けのためにある程度は黙認される。
次郎太が誘われたのも、せっかく入った若い雑用係が
客への対応にうんざりして逃げ出し、人手不足の状態の
ためであった。
賭場の儲け、いわゆるテラ銭を貰える立場には無く、
歳も歳故に小僧扱いは相変わらずだが、公儀役人の
取締りの目をくぐるために共犯関係といえる立場のせいか、
月に貰える額は普通の職人並みである。
元々博徒になりたいわけでもなく、当てがない次郎太が
食って行くには、とにかく何でもよかった。
「飢え死にはいやだ」
切実だった。
小僧として賭場の雑用を受け持った以上、安易に逃げても
その後の当てもない。なにより不義理をすれば戻ることも
通りかかることさえも危うくなりかねない。
道場当時のただ働き同然に比べれば実入りがいい。
次郎太は、僅かでも稼げる現状にしがみつくようにして
二年近くを文之助親分の下で過ごし、必死さもあって
仕来りや所作など、諸々の知識を得て日々の務めを
こなしていたが、やはり、このまま年老いていくことに
疑問と抵抗を感じて、江戸に出ることを考えた。
江戸からやって来た商人や博徒の雑談などで、
聞くともなしに耳にしていた次郎太は、江戸に行けば
まだ仕事も色々あり、もっとより良い可能性が
あるはずだとの思いが強まっていた。

次郎太は文之助親分に理由を話して許可をもらい、賭場も
最後ということで、初めて客として博打に参加した。
せっかく離れるのに癖になりかねないと文之助は渋い顔
だったが、これまでの次郎太の真面目な務めに免じて、
所持金の一割を条件に、客として参加を認めた。
「博打はするもんじゃねえ、させるもんだ」
関八州の大親分とも云われる大前田英五郎が直に次郎太に
語り、次郎太にも印象に残った言葉だった。
次郎太の親父も兄も博打とは無縁の愚直な働き者だった。
「博打はやめとけ、身を滅ぼすぞ」
父の忠告も思い出された。
近隣の村人や道場の者達が話題にし、博打をやっている
ことは知っていた。掛金も小銭程度で、特に珍しくもない、
日常の娯楽に過ぎない。
曖昧で当てにならない、損も多いと聞く博打を毛嫌いする
気は無かったが、別段関心も無かった。
裏方として気疲れする毎日から解放され、とりあえずは
自由の身となった今、賭場に参加する一客としてその場の
雰囲気を味わってみたいという単純な理由だった。
無論、賭場の裏はある程度知る身である。
単なる偶然で勝ち続けることなどありえない。
丁半博打での勝率については、客もそれぞれ
こだわりがある。
理論立てて納得する者がいる一方、
運を強調する者もいる。
それぞれが理屈をもって、
「今日こそは、あわよくば・・・・」
と、儲けを当てにして参加している。
しかし、客が勝ち続けることはない。
事前に客が掛金を木札に換える際に胴元(貸元)が手数料を
取ることになり、そこでは一~二割を胴元の取り分として
木札の数も工夫されている。更に勝負一回ごとの
手数料で太る。
客は大きく張らなければ到底儲けたとは考えにくい。また、
客が一回だけ勝負して勝ったから帰る、では困る。
参加者あっての博打であり、商売である。
丁半互いに張ればこそ掛金が勝った側に回る。
片方だけでは勝負にならない。
結局、胴元が仕切りつつ客同士が後の儲けを期待して、
あるときは敢えて損に回るなど妥協して勝負を続ける。
笑うは胴元ばかりなり、ではあるが、客にそう思わせず
常連となってもらうためにも、時には胴元側の者、
“さくら”も参加させて勝ちを譲るなどの工夫もされる。
この加減、塩梅の駆け引きが客にも胴元にも求められた。

その点、次郎太は単純明快、数回賭けて少し儲ければ
結構毛だらけ、損なら見物料に参加料と思えばいい、
と割り切っていた。
常連客からすれば、
「昨日までの小僧が、生意気な・・・・」
であるが、立場違えば互いに対応は違うもので、
いつも通りの薄暗く狭苦しい中で勝負が展開された。
結果、次郎太は数回で、
「儲けた」
と確信を得た。
偶然か、文之助親分の意向で餞別のつもりかは不明ながら、
ともかく誰よりも早く勝負を降りた。
さくらも必要の無い満員状態であり、胴元も困らず、
一抜けも大丈夫だろうとの判断である。
「あまりやると明日からまずいので、
これで勘弁して下さいまし」
と、一礼して引き下がった。

次郎太の儲け分は、掛金の倍程度であった。
江戸への路銀として十分といえた。
が、儲けたらしいと知った常連の博徒三人が目をつけた。
賭場に別れを告げて次郎太は江戸へ行くという。
小僧とはいえ文之助親分の子分という扱いだった
これまでは遠慮があったが、それも無くなったとなれば、
「あいつぁ、野良犬だ」
と、何の遠慮もいらない。
所持金を全部巻き上げて、抵抗したら殺してしまえ、
という算段である。

by huttonde | 2014-10-08 05:59 | 漫画ねた | Comments(0)
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