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2017/03/14
現代にもあるメニューに親近感? 江戸の食事情、毎日どんなものを食べていたの? 阿部裕子@ 江戸時代、庶民は日々どんな食事を していたのでしょうか? 江戸時代中期以降に、食事が1日3回になったけれど、 毎回ごはんを炊くわけではなかったようです。 朝、その日に食べる分のごはんを炊いたら、 昼も夜もそれを食べます。 昼は冷や飯、夜はお茶漬けなどにしていました。 お味噌汁の具は、家の近くまで来る豆腐やあさり屋から 買えるので、それで事足りたようです。 夜は干物の魚を焼くこともあれば、煮売り屋で買った お惣菜を食べることも。ごはんがメインで1汁1菜が定番 なので、おかずを何品も作らないといけないということは なかったのかも。とはいえ、食は楽しみのひとつ。 やっぱり、人気のおかずというものは、 この時代にもありました。 意外にも今の食卓でも見かけるメニューが多い 江戸時代後期に発行された刷り物「おかず番付」では、 「精進方」(野菜・豆・芋などの植物食)の人気メニュー は、八杯豆腐でした。これは、豆腐を細長く拍子木切りに して、水・酒・油を合わせた煮汁で煮たものです。 当時の代表的な豆腐料理だったようです。 ほかにも、昆布あぶらげ(昆布と油揚げの煮物)、 金平牛蒡、煮豆、ひじき白和え、切り干し煮付け…と、 比較的今の私たちの食事でも見かけるメニューで、 なんだか江戸時代の人々に親近感が増しませんか? 一方、「魚類方」(魚介類などの動物食)では、 目刺し鰯(いわし)、むき身切り干し (貝のむき身と切り干し大根を煮たもの)、 芝えびから炒り(芝えびをから炒りし、 醤油で味付けしたものなどが好まれたようです。 こういった食事をきっと江戸時代の庶民はちゃぶ台を 囲んで食事していたのだろうと思いきや、食卓を囲んで 食事をするのは明治時代以降だったのです。江戸時代は、 家族それぞれが別の膳を使って食事をしていたようですよ。 江戸庶民は屋台も大好きだった そして、家だけでなく屋台で食べるのも大好きだった、 江戸時代。元禄に簡易な小型コンロの七輪が普及した という背景もあり、屋台はぐっと身近なものになり、 天麩羅や団子屋、そば屋、しるこ屋と様々な屋台が 並んでいました。仕事やお風呂の帰りにさっと立ち食い できる屋台は、1人暮らしの男性にも大人気だったとか。 ちなみに、お寿司の屋台で、人気だったのは、コハダや シラウオ、車エビ、玉子、鮪など。鮪は赤身が人気で、 トロは好まれなかったとのこと。 江戸っ子たちで賑わう屋台が、 なんだか目に浮かぶようです。 「美味しいものでも食べて帰ろう!」と思うのは、 いつの時代も変わらないのかもしれませんね。 http://mag.japaaan.com/archives/52439 2017/03/24 時の鐘は有料です(キリッ! 時計を持っていない 江戸時代の人はどんな方法で時間を知ったの? 阿部裕子@ 知ることができる現代。江戸時代にも、時計は ありましたが、高級なもので、とても一般庶民に 買えるものではありませんでした。 時計を持っていなくてもノープロブレム じゃあどうやって時間を知ったのかというと、 「時の鐘」です。時刻を知らせる時の鐘が、 江戸の町のみんなに時間を知らせていたのですね。 最初に設置されたのは、寛永3年(1626)で、 場所は日本橋本石町。江戸最初の町人の町と 言われています。 この鐘は、起床・就寝の時間を知らせてくれるのですが、 時刻と関係のない鐘(捨て鐘)を、注意をひくために3回 鳴らします。その後、それぞれの時刻分だけ鐘を撞いたそう。 9つのときは、3回の捨て鐘の後、9回鳴らすわけですが、 この鐘は無料ではないというからビックリ! 鐘の音が聞こえる町の家はすべて、1ヶ月につき4文、 年間48文を鐘代として徴収されるそう。鐘のすぐ近くに ある家はよく音が聞こえるけど、遠いところにある家だと、 音が若干遠くなるはず。それでも、鐘代は同じだから、 不満があった家もあるかもしれませんね。 江戸時代は何時何分という呼び方をしていなかった。 時間の呼び方は? ちなみに、江戸時代の人々は、何時何分という呼び方を していなかったとか。例えば、12支で呼ぶ方法もあり、 1日を12等分して、12支の動物の名前を当てて呼ぶのです。 午後11時から午前1時までは、12支の「子」を当てて 「子の刻」。そして、「丑(うし)の刻」「寅の刻」 「卯の刻」「辰の刻」「巳の刻」「午(うま)の刻」 「未(ひつじ)の刻」「申(さる)の刻」 「酉(とり)の刻」「戌の刻」というように。 つまり、それぞれの刻が2時間あるわけで、例えば 待ち合わせ時間を決めても、來る時間が2時間ずれる 可能性だってあるわけです。午前11時に来る人も 午後1時にくる人も、同じ時間にきたことは間違いない ので、またされた!と怒ることもありません。 今となれば、そんなこと考えられないですよね。 とはいえ、携帯が普及する前の頃を思い出すと、 案外そんなこともあったかもと思いませんか? 待ち合わせ相手がなかなか来ないときは、相手の自宅に 電話してお母さんに聞いたりということだってよくあること でした。連絡がとれたらまだいい方ですが、どこにいるか わからず、待ち合わせ場所で待っていたら、気が付いたら 1時間経っていたなんてことは、私たちの生活にも あったのです。 そう考えると、江戸時代の人々も、不便に感じることは なかったのかもしれません。時計を持っていなくたって、 時の鐘が時間を教えてくれるし、火の出や日没などを 通して、自然と何時頃か知ることができたのでしょう。 江戸時代の人々のように自然と時間の感覚が身についたら、 時間に追われることもないのかも? 画像出典:photoAC、Japanese Art Open Database http://mag.japaaan.com/archives/52482 2017/04/04 荷物届くのに4日も!? 遊女のための配達人もいた、 江戸時代の通信手段いろいろ 阿部裕子 早ければ当日のうちに荷物が届いてしまう便利な世の中 ですが、江戸時代は江戸から京都まで荷物が届くまで 4日かかったそう。 飛脚の種類もいろいろ 江戸と京都・大坂間での書類や運送のやりとりに、 庶民が直接関わることはありませんでした。幕府・大名・ 商人のみが利用していた当時の通信手段の一つが継飛脚。 この継飛脚だと、江戸~大坂間を90時間で届けるのが 一般的で、幕府の重要文書を送達するのに 利用されたようです。 江戸後期になると、継飛脚に加え町人の経営する 町飛脚がいくつも開業して、物資や情報の行き来が ますます盛んに。料金設定が異なる臨時便や特急便も つくられました。今の宅急便システムに少しずつ 近づいてきているような気がします。 チリンチリンの町飛脚 江戸の町飛脚には、便り屋と呼ばれる江戸周辺と 市内専門を扱う業者もあり、手紙や小荷物を扱いました。 別名はチリンチリンの町飛脚。背負った小さな箱の先の 棒に風鈴を下げたまま市内をまわったので、チリンチリン という音がしたら町飛脚が近づいた合図。 「あ、町飛脚がきたな」と手紙の準備をしていたの でしょう。もちろん店舗もあったので、荷物の持ち込みも OK。ただ、このチリンチリンの町飛脚、あるケースには 不向きと言われました。どんなケースだと思いますか? それは、恋文を頼みたいときです。恋文はそっと渡して もらいたいので、チリンチリンなんていう音がしたら、 都合が悪いわけで。相手に届けてもらうにも自分に 届けてもらうにも、どちらにもしても困りますね。 遊女のための配達人もいたんです。 遊女のための配達人 もう一つ、配達人といえば、文使いという人たちが いました。彼らは、吉原や品川の遊女にとって、 なくてはならない存在です。妻子ある男や商家の 若旦那に、いわば営業用の恋文をマメに送るため、 遊女たちが書く手紙の量はハンパじゃありませんでした。 大量の手紙を運ぶ文使いは、遊女が払う正規の運び賃に プラス、手紙を受け取る男からのチップももらえたから、 万々歳なのでした。 荷物は少しでも早く届いたら嬉しいけど、手紙よりメール。 メールよりLINE…とどんどんスピーディーになると、 なんだか「待つ楽しさ」というものが薄れてしまう気が することも。どんな手紙がくるかなと、ドキドキしながら 待っているときが、本当は、一番の醍醐味なのかも しれませんね。 http://mag.japaaan.com/archives/52928 2017/04/12 茶屋娘にキュン♡ 江戸時代の庶民的アイドル 「茶屋娘」は江戸女子にも人気だった 阿部裕子@ 茶屋に行ってお茶を飲んだら、可愛い娘さんとおしゃべり を楽しむこともできるのですからこんなに嬉しいことは ありません。 「娘ざかり」の茶屋娘たち 当時、16歳から18歳ぐらいが「娘ざかり」 と言われていたそう。確かに、だんだん大人っぽく なっていく年齢ですよね。娘ざかりの茶屋娘たちが 給仕してくれるのですから、男性のお客さんたちが 会いに行きたくなるのもわかるような。 元々商家では娘を店先に出すことはなかったのですが、 商業が活発になるにつれ身内の女にも手伝わせるように なったとか。決して上手いとはいえない接客が、 かえって世慣れしておらず素朴で良いと好評になり、 茶屋娘の知名度がアップしました。中でも美人娘は 客寄せ効果がバツグンだったとか。 さらに、鈴木春信や喜多川歌麿など 当時の有名な浮世絵師が美人娘を描いたため、 ますます彼女たちの人気は高まっていきました。 女子も憧れちゃう茶屋娘 美人娘は男性だけでなく女性にも人気で、髪型を真似 されたりと、庶民のファッションリーダー的存在でも あったそう。ただ、あまりに評判の高い美人娘になると、 お湯をほどよい加減にして出すだけで特に話し相手も 務めなかったとか。それでも、美人にお茶を出して もらえるだけで充分嬉しかったのでしょうね。 明和の三美人は、笠森稲荷の鍵屋おせん・浅草寺裏の 柳屋お藤・二十軒茶屋の蔦屋およし。一方、 寛政の三美人といえば、難波屋おきた・ 高島屋おひさ・菊本おはんでした。 歌川国貞(初代),歌川国久/画 江戸東京博物館蔵 評判娘がいるとなれば、茶屋代もどんどん高くなります。 最初は5文(約125円)だったのに、24~50文になって しまいます。なんと100文渡すお客さんもいたとか。 若くて美人の茶屋娘は、今でいう 「会いに行けるアイドル」的な存在だったのでしょう。 時代と共に茶屋も… しかし、最初は身内の娘だった茶屋娘も、雇い女を置き 売春する水茶屋が出てきたことで、文化2年(1805年) に、茶くみ女の年齢が決められてしまいました。 13歳以下、40歳以上なので、お年頃の美人娘を店先に 出して、客寄せすることができなくなったのです。 もし、雇い女を置くお店がでてこなければ、茶屋娘の 年齢制限されることもなかったはず。いつの時代も、 あわよくばと悪いことを企む人はいるものですね。 トップ画像: 江戸東京博物館 http://mag.japaaan.com/archives/53027
by huttonde
| 2017-03-15 01:40
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