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時代劇 15
・・・・
慶応四年(1868)五月二十四日、薩長を中核とする明治
新政府は、蟄居謹慎中の慶喜に代わって田安亀之助
(徳川家達 いえさと)を徳川家の相続者とし、
駿河・遠江・陸奥等で七十万石が与えられた。
府中(駿府)では天皇や政府に対して不忠として
静岡藩となった。
しかし、これまでの幕府天領や旗本領の総計約七百万石と
比べて十分の一の石高では、集まってきた旧幕臣達を養える
わけもなく、生活扶助も限界があり、家達は自活を訴えた。
無理がある藩財政は当然悪化した。その為、旧幕臣の
渋沢栄一により財政再建が行われ、後の静岡茶など、
旧幕臣達による特産品の開発などが推し進められた。
人材不足の新政府からは幕臣達へも誘いはあったが、
彼らの多くは不遇を承知で断っていた。武士は二君に
仕えずという武士としての矜持があった。

九月になると慶喜は謹慎を解かれた。駿府の小さな寺院、
宝台院から与えられた元代官の屋敷に移り、妻の美賀子や
側室の一色須賀、中根幸、新村信なども東京から呼んだ。
政治活動は禁じられていたが、比較的行動は自由だった。
家達や旧幕臣達には、徳川家を滅ぼした張本人としてひどく
嫌われて気まずい、つらい思いもあった。
徳川一族が集まったときは、床柱に座っていた慶喜に
対して家達が、
「私の座る場所がない」
と慶喜を睨み、慶喜は渋々席を譲ったという具合で、
判断に欠けるのは相変わらずだった。
このときは小栗の盟友だった栗本鋤雲(瀬兵衛)も
列席したが、末席にいた勝海舟に、
「どけっ」
と一喝したという。
勝もまた慶喜同様、戊辰戦争では既に我が事は終えたりと、
知らん振りを決め込み、江戸城開城の顛末を自慢げに
周りに話すのを好んだ。
「この東京が何事もなく百万の市民が殺されずに済んだのは、
実に西郷の力で、その後を引き受けてこの通り繁盛する基を
開いたのは、大久保利通の力だ。あのとき俺は罪も無い
百万の精霊をいかにして守ろうか苦心したが、ただ至誠を
もって官軍に利害を説くばかりだった。官軍が聴かなきゃ
それは官軍が悪いんだから、俺に非は無い。その場合は
最後の一戦をしてやろうと決めたのさ」
と、矛盾に気づかず、
「維新の際に大鳥とか榎本とかいう豪物、お家のためだと
いって箱館に逃げたが、俺は愚物は到底話しても分かるまい、
いずれ悟るだろうとうっちゃっておいた。彼らははたして
後悔するときが来たよ」
「小栗は幕末の一人物だよ。あの人は精力が人に優れて
計略に富み、世界情勢にもほぼ通じて、しかも誠忠無二の
徳川武士で、先祖の小栗又一に似ていたよ。一口に言えば、
三河武士の長所と短所を持ち合わせていた。しかし度量が
狭かったのはあの人のために惜しかったよ」
という具合に旧幕臣達を腐した。
彼もまた元気で、自宅に出入りする女中などに手をつけ、
妾にして一緒に住み、慶喜の十男精(くわし)を養子にし、
明治政府の顕官となり、晩年は伯爵の爵位を得るなど、
我が世の春を謳歌した。
例外的ともいえる恵まれた境遇をうらやみ、恨む声には、
「そりゃぁもちろん、俺の才覚だよ」
とほくそ笑んだ。
もっとも、妻民子はうんざりしていたらしく、
「私が死んだら、あの人と同じ墓には入れないで下さい」
と遺言し、七十七歳で勝が亡くなった六年後に亡くなり、
やはり親父譲りか、息子の精は民子を
勝と同じ墓に入れている。

慶喜が周りから嫌われようとも、それでも身の危険が
あるわけでもなく、生活費は徳川宗家から定期的に
送られて来ており、何もせずとも食える身の上である。
彼は毎日を趣味で暮らした。乗馬、弓、狩猟と楽しみ、
家での囲碁も初段に進み、謡曲も評価された。
和歌も嗜み、写真や油絵、陶芸、刺繍、
当時はまだ珍しい自転車にも挑戦した。
毎日遊ぶだけでなく食事にも気を遣い、鯛、鮪、
ヒラメの刺身や、ウニやナマコ、鶏卵の半熟を好んだ。
旧幕臣達の窮乏などには無関心だった。
また、心身充実して、側室による子は
十男十一女となった。

・・・・
会津藩が降伏直前、離れていた大鳥ら伝習隊と土方は
仙台で再会した。また、京都守護職に反対し、
その後も非戦論を説いて容保と対立、罷免されていた
西郷頼母も、戦が始まってからは
「もはや城を枕に討ち死にすべし」
と会津降伏に反対し、
それが叶わぬと分かると仙台まで逃れていた。

仙台には勝海舟が「戦は負ける、無駄だ」と引き止めるの
を拒否して、江戸より寄港した榎本率いる旧幕府軍の
艦隊があった。
榎本は以前に蝦夷、樺太を航海し、情勢も把握している。
慶喜の助命と幕府温存だけでなく、旧幕臣達や浪人などに
よる蝦夷地開拓と、露国などからの防衛の必要も
考えていた。
艦隊は旗艦開陽丸に回天丸、蟠竜丸(ばんりゅうまる)、
千代田形の軍艦と、咸臨丸(かんりんまる)、長鯨丸
(ちょうげいまる)、神速丸(しんそくまる)、長崎丸、
美嘉保(みかほ)の五隻を輸送船として計九隻あり、
伝習隊の教官でもあったフランス陸軍士官のブリュネ達
五人も参謀として乗り込み、陸海軍総勢約三千五百人
という薩長側海軍を凌ぐ兵力だった。

戦力温存の榎本艦隊であれば、やりようで事態打開も
図れると考えたが、八月二十二日、銚子沖から鹿島灘で
台風によって美嘉保は漂流大破し、咸臨丸は清水港まで
流された。
咸臨丸は米国西海岸まで航行した実績ある船だが、
既に老朽化していた。榎本艦隊の一隻として回天丸に
曳かれて南下していたが、横須賀の観音崎で座礁、
台風により回天丸の曳き綱を切って漂流し、
駿府藩の外港の清水港に避難した。
蟠竜丸が救援に向かうが、警戒して外浦に入津、
伊豆の安良港で修理すると仙台の榎本達に合流した。

清水港に寄港した咸臨丸には約二百名が乗船していた。
艦長の小林文次郎、副長春山弁蔵、弟鉱平と水夫らは自首
して藩主家達の判断に任せる覚悟だったが、ようやく
認められた徳川領ともいうべき駿府藩に、朝敵とされる
榎本艦隊の一隻が現れたことに困惑した。
山岡鉄舟は、以前は幕府内での攘夷派だっただけに分別に
欠ける面があるが、その豪胆さは誰もが認めるところであり、
半年前に西郷と勝の江戸開城交渉の下準備に活躍したように、
今回の騒動でも地元の侠客清水次郎長の協力を得て、
咸臨丸乗組員と話をつけ、先に手を出さないように強硬派
らしき者達を清水村や三保村に分散させて民家に隠し、
船の修理のため鉄砲や器械類を陸揚げして、乗組員だけ
残して恭順策を図るつもりだった。
しかし、艦隊の江戸脱走を知って警戒していた西軍は、
九月十八日、半年前に榎本より引き渡されていた富士山丸
で飛龍と武蔵の両艦を従えて清水港に入ると、停泊中の
咸臨丸にいきなり砲撃を始めた。
甲板上で白布を振って停戦降伏の意思を伝えるも西軍側は
無視し、その後やむなく白兵戦となるも多勢に無勢、
船に残っていた約二十名が殺されて遺体は海に捨てられ、
下船中で生き延びた者も捕まり、艦長の小林は東京糾問局
に送られて入牢となった。
国際法を知らなかったのか、咸臨丸を恐れたのか、
やらかした柳川藩は罰せられることもなかった。
幕府を想って活動していたであろう咸臨丸の乗員達を、
駿府藩は援護救援することも出来ず、遺体処理を禁ずる
西軍の通達にも従うしかなかった。
遺体は砲撃によって首や手足の無いまま腐乱死体として
近海を漂ったままだった。
幕臣として手を出せない鉄舟は、地元の有力者の次郎長に
相談した。次郎長もまた駿府藩と西軍の政治的対立、
緊張状態は理解している。
そこで次郎長の義侠心が発揮された。
「山岡さん、亡くなった方々も国のために一心に活躍された
方々でしょう。うちらが御遺体を集めてお弔い致しましょう」
清水一家は夜密かに港内で遺体の収容を始め、春山兄弟ら
七名を新開地の向島の古松近辺に埋葬した。
結果、西軍と駿府藩からも批判されたが、
「どっちが官軍だの賊軍だのこだわってるが、互いに入れ
違ってもおかしくはあるまい。死んだ者をほったらかして
何が官軍だ、忠義もクソもあるか、士道も人道もねえなら
俺らが仁義を通してやるまでだ。ここは漁港でもある。
漁師も生活してんだ。天下の官軍が漁師の暮らしを邪魔
しようってのか。死んだら弔うのが人の道じゃねえか。
こっちはやましいことは一つもねえ。疑うならどこへでも
出てやるよ」
と啖呵を切った。
翌年、向島の埋葬地に、鉄舟による「壮士墓」と揮毫した
墓碑が建立され、鉄舟から次郎長に一詩を送り謝した。



・・・・
榎本艦隊が仙台に着いたときには会津は城下まで
包囲され、仙台の藩論も降伏寸前だった。
藩からすれば、
「なぜ今更」
の思いが強い。
陸と海で連携すれば戦局も大きく動いたであろうにと、
降伏に反対する旧幕軍達に反発した。
しかし榎本らは、西郷と勝の江戸開城の交渉の際に
西郷側に圧力をかけるために、上司である勝によって
品川からの出港を止められていた。また、米国に発注
していた軍艦ストンウォールが横浜に来ており、
西軍に奪われないように交渉もあった。
榎本は手堅く動いていたつもりだったが、西軍は先手を
取って新潟港に上陸、港は奪われ、会津や米沢は武器弾薬
などの補給の道を断たれた。次に西軍が常陸の平潟に
上陸すると平城を攻め落とし、北隣の相馬藩も降伏し、
西軍は仙台国境まで押し寄せて、仙台は恭順降伏を
決めていた。
藩は艦隊の存在を疎ましく思い、新政府からの嫌疑を
恐れて、食糧提供に協力する代わりに領内から立ち退く
ように榎本に伝えた。
十月十二日、榎本艦隊は仙台から蝦夷地に向かった。

冷風吹きすさぶ十一月に榎本らは箱館の裏側の内浦湾に
入り、そこで幕府歩兵が上陸、続いて大鳥の伝習隊など
旧幕府歩兵や土方率いる仙台額兵隊、旧幕府別働隊が
箱館に行軍した。
函館府知事は榎本艦隊の来航に驚いて青森に逃げていた。
榎本は開陽丸で箱館に廻って交戦もなく五稜郭に入った
が、西部の松前藩は抵抗した。
土方らが松前に攻め込んで北部の江差にも向かい、
榎本も開陽丸で江差へ応援に行った。
江差は鎮まったまま抵抗する様子もなく、土方が江差に
入り、榎本らも上陸したが、この頃海はひどく荒れていて、
開陽丸は努力の甲斐なく座礁、沈没した。
旗艦であり主力の軍艦が沈没したのは一大痛恨事だった。
案の定この一報は西軍側にも入り、榎本艦隊、
旧幕軍掃討の準備を進めた。

榎本らは五稜郭を本陣として、入札(選挙)を実施、
榎本が総裁に選ばれた。副総裁は松平太郎(旧幕臣)、
海軍奉行は荒井郁之助、陸軍奉行は大鳥圭介、
同並土方歳三、箱館奉行永井玄蕃、同並中島三郎助
(旧幕臣、浦賀奉行与力)、開拓奉行沢太郎左衛門
(同前)、松前奉行人見勝太郎(同前)等々。

十二月には現地での新兵を募集し、百五十人を採用して
フランス軍人の協力の下、戦闘訓練を始め、小銃製造も
進んで、歩兵の給料は西洋式の月給に決められた。また、
工兵隊による五稜郭の改溝、増強も進められ、
大砲も準備された。

また、各国からの防衛も考え、米英露普各国に
独立政権と認めさせることにも成功した。
しかし、謀反や新勢力として日本国への対抗ではなく、
あくまでも天皇を仰ぎ、蝦夷地防衛と開拓を担うとの
目的があり、朝廷に薩長の横暴を訴えつつ、旧幕臣達の
活躍の場を与えるべくその必要性を伝えたが、
西軍側として勢いに乗る岩倉はにべもなく却下した。

艦隊の弱体化を嘆いていても仕方がない。回天丸艦長
甲賀源吾が、西軍にある戦艦の甲鉄号を奇襲強奪する
作戦を榎本らに進言した。同行していたフランス海軍
士官ニコールの策だった。
甲鉄号は幕府が米国に発注した軍艦で、幕府崩壊後に
到着したため、新政府として西軍側に引き渡されて
しまっていた。
榎本は品川での奪取を策していたが
不成功に終わっている。

明治二年(1869)三月二十五日、攻撃隊を編成して
西軍艦隊が停泊する三陸の宮古港に急行、複数の船で
攻撃、乗り込んで奪う予定だったが、二十四日は
暴風雨で海は荒れ、僚艦の高雄は損傷して遅れ、
蟠竜丸(ばんりゅうまる)は間に合わなかった。
その上、高雄は再度の出航で再び機関が故障し、
結局回天丸単独の攻撃となった。
目当ての甲鉄号は宮古湾の鍬ヶ崎(くわがさき)港に、
春日、朝陽、丁卯、陽春、延年の軍艦と、飛龍、戊辰、
晨風(しんぷう)の輸送船が停泊していた。
回天丸はマストに米国国旗を掲げて甲鉄号に近づき、
すぐ近くまで寄せると日の丸に換えた。
しかし、回天は外輪船で平行の接舷ができない。
船首から衝突したが、十メートルの間が空いてしまった。
急ぎ後退して甲鉄号の左舷に突っ込み、船首が乗りかかる
ようにしたが、白兵戦とするはずが船の高低差は
三メートルと高く、飛び降りるのも困難で、ようやく
飛び降りたのは七人に過ぎず、たちまちガトリング砲の
銃撃を受け、甲賀も戦死した。享年二十八。その後の
交戦で十九人が戦死した。甲鉄から回天に戻れたのは
二人だけだった。
僅か三十分の交戦で負傷者も多く、司令官の荒井は
撤退を命じ、回天は二十六日に箱館に帰港した。一方、
高雄は敵艦に追われて宮古湾から北方の南部藩領
羅賀(らが)海岸に乗り上げて自焼、乗員二十七人は
南部藩に投降した。

西軍の艦隊は陸奥湾に着き、陸兵は七千人もの大部隊と
なっていた。
四月になると更に渡島半島西岸、江差北部のの乙部に
西軍千五百人が上陸した。その一帯は無防備だった。
西軍は二手に分かれて、一隊は江差を占領して松前を
目指し、もう一隊は内陸山を迂回して二股口から箱館に
南進した。
土方の伝習隊や衝鋒隊が急ぎ迎撃して撃退し、
海岸方面では大鳥の指揮する伝習隊、額兵隊、
彰義隊が善戦して侵攻を阻んだ。
しかし、松前城は奪われ、西軍の軍艦が箱館港に接近
していたため、大鳥は部隊を撤収、箱館に戻った。
二十九日には西軍陸兵部隊が箱館湾西際まで攻めて来たが、
準備した陣地を活かしてこれを寄せ付けなかったものの、
午後には西軍の艦隊七隻が現れて艦砲射撃が始まった。
甲鉄号のアームストロング砲の威力はすさまじく、
補強していた陣地も簡単に崩されて、雨霰と降り注ぐ
砲弾に死傷者が続出し、砲弾の破片や爆風で
吹き飛ばされた戦死者が散乱した。
これでは一方的で歯が立たぬと判断し、
全軍箱館方面に後退した。
二股口を守った土方の部隊も統率が取れず、
部隊は麻痺した。

・・・・
一方、激しい戦の末、多くの死傷者を出して降伏した
会津藩は、明治二年(1869)十一月三日、松平容保の
一嫡男容大に家名存続が許され、旧南部領の下北半島と、
七戸・八戸藩を挟んだ十和田湖東部山間地に、
斗南(となみ)藩として再建された。
当初は三万石と知らされ、謹慎していた藩士達は喜んで
家族を伴って海と陸から新天地を目指したが、田畑の
広がる肥沃な平地や、豊かな漁港のある地域は七戸・八戸
両藩の領地のままで、南北に分断された領地は、冬は雪と
氷に覆われ、作物も雑穀が僅かに採れるだけの荒涼とした
土地で、実質一万石にも満たないと判った。
元々は財政難と過酷な環境から統治困難として、
南部藩から新政府に返上された地域でもあった。
c0072801_5582380.jpg
 http://42777848.at.webry.info/201210/article_5.html

結局のところ、新政府は会津への警戒を解いておらず、
その沙汰は遠島流罪に等しいものだった。
藩士も藩からの僅かな扶助を受けつつ開拓を進めるが、
予想以上の冬の厳しさと耕作の不調に、老人や子供の
餓死や病死が相次ぎ、再び会津へ戻る者、
脱走者が後を絶たなかった。

一方、会津始め奥羽越列藩同盟の東北諸藩や関東四藩、
他二藩など、薩長側によって没収された石高は一〇八万
三四〇〇石に上り、財産も没収されて、新政府、即ち
薩長側の高位高官達への恩賞に当てられた。正義も名誉も
権力も金も石高も、総ては勝って官軍の薩長の切り取り
放題、下級武士でもあった多くの要人達は、これによって
資産を増やして大いに我が世の春を謳歌した。しかし、
官軍となった西軍諸藩にしても、それまでの戦費によって
貧窮し、一般兵士にまで恩賞は行き渡らなかった。
薩長もまた軍隊は縮小再編されて、生活に困窮した
庶民の一揆と共に、不満を持った兵士達が各地で反乱を
起こすに至った。

・・・・
慶喜は近隣での散歩や写真撮影などで出会う農民達に
「ケイキさん」と呼ばれていたが、
彼ら農民の多くは元旗本や御家人達だった。
万事鈍いのが慶喜だった。
ある日、慶喜が近所の土手で田園風景を写真に
収めていた。そこへ一人の若者が現れた。
「お初にお目にかかります。ぜひともお会いしたくて
訪ねて参りました」
「ほう、どなたですかな」
「小栗上野介忠順家来、次郎太」
「小栗・・・・」
「我が殿の無念、僅かばかり晴らしたく」
慶喜が驚く顔を見せる間もなく、次郎太は慶喜の顔を
正面から思い切り殴った。
慶喜は土手下へ転がり、カメラも三脚も倒れ転げた。
「これにて御免」
次郎太は一礼すると去って行った。

その後、明治三十年(1897)に慶喜は東京の巣鴨、
小石川へと移り、敷地三千坪、建物千坪の日本家屋に
暮らした。また、慶喜の境遇を気にした明治政府は、
侯爵を授けて貴族院議員とし、勲一等旭日大綬章を
贈った。
慶喜こそが倒幕の一大功労者であることは、明治政府、
薩長らにも明白だった。
更に明治天皇との会見を用意し、天皇は慶喜を酒肴で
もてなして和解を進めた。慶喜が帰ると天皇は、
「私もこれでやっと胸のつかえがおりたよ。
慶喜は浮世のことは仕方がないと言ってくれたよ」
と伊藤博文に話した。
大正二年(1913)十一月二十二日、慶喜は海舟と
同じく七十七歳の大往生を遂げている。

・・・・
小栗が計画起工した横須賀製鉄(造船)所の第一号
ドックが完成したのは、小栗の死から三年後の
明治四年(1871)一月だった。
この記念式典には元西軍の政府高官達も列席し、
設計者のフランソワ・ヴェルニーに感謝の言葉を
述べた。

明治四十五年(1912)夏、七年前の日露戦争の勝利
にも落ち着きを取り戻した感のこの時期、神奈川の
国府津(こうづ)在住だった小栗家の遺族が、
東郷平八郎の自宅に招かれた。
東郷は誰もが知る連合艦隊司令長官として、露国の
バルチック艦隊の撃滅という歴史に残る快挙を
成し遂げている、今や英雄的存在であり、
聞けば薩摩の出だという。
そんな人物が自分達に一体何事かと貞雄は一抹の
不安が消えず、小栗の遺児で妻の国子は病弱で、
緊張に耐えかねるだろうとの判断で自宅に残り、
貞雄と十四歳の又一父子二人が東京麹町にある
東郷邸を訪ねることにした。
玄関まで出迎えた東郷は思っていた印象とは違う
羽織姿の小柄な好々爺といった風体で、柔和な笑顔から
「やあやあ、これはどうも御足労頂いて恐縮です」
と、丁重に貞雄達に上がるよう促し、奥座敷に案内して
小栗父子に上座に座るよう勧めた。緊張する貞雄が
固辞して座に着くと、
「それでは」
と姿勢を改めて、
「先の日露戦争、あの日本海海戦において、我が方が
完勝といえる結果を得たのは、第一に明治天皇の威光が
絶大であったことは無論ながら、軍事上の勝因の第一は、
ひとえに小栗上野介殿が横須賀造船所を造っておいて
くれたことが、どれほど役立ったか知れません」
と、礼を述べた。
三笠などの戦艦や、巡洋艦や一部駆逐艦などは英国や
ドイツ、米国製だったが、敵艦隊がウラジオストクへ
逃げ込もうとする際にこれを待ちうけ、高速追尾して
確実に魚雷を撃ち込んだ中小の駆逐艦や魚雷艇などは、
横須賀や呉で建造されたものだった。
更に、遠路航海して疲弊し修理もままならない敵艦隊に
対し、我が方は横須賀と呉の造船所で修理や点検が行われ、
準備万端で出港が出来たことが大きく、ドックあればこそ
と賞賛し、言葉を続けた。
「官軍の一部によこしまな者あり、小栗殿を殺めた罪を
今更詫びたところでどうにもならないが、
なにとぞ御許し願いたい」

東郷は二人をもてなすと後日、縦横二幅の「仁義禮智信」
と揮毫した「五常之徳」の書を贈った。

帰宅の際、街を歩きながら息子の又一が貞雄に聞いた。
「祖父の無実は晴らされるのでしょうか」
貞雄は静かに、
「もちろんだ。晴らさらねばならない。
状況はまだ悪いが、真実は明らかにされるさ」

二人とすれ違いに一人の老紳士風の男が近くの
骨董店に入る。
店主が立ち上がって一礼して、
「やあ、ごぶさたしてます」
老紳士は帽子を取って一礼の後姿。
店主は勘定場の机で茶を用意し、イスを出して、
「蒔絵(まきえ)の調子はどうですか」
老紳士は腰掛けながら、
「ええ、やはり難しいですね。手間がかかって時間
ばかり過ぎてしまって・・・・で、根付の方はどうですかな」
「あー、さすがに西洋化が進んで売り上げは
渋いんですがね、最近は外国の観光客が土産に
買いに来ますよ。珍しいんでしょうなあ」
近くのガラス棚に並ぶ根付。それを見る老紳士の後姿。
「手にとってよろしいですか」
「ええ、どうぞどうぞ、作者に断りゃしません」
過去に自分が彫った根付を手にとって眺める
丸眼鏡に片目の老紳士。
「高いものはなかなか買い手がつかなくてね、
長く置いたっきりも結構ありますねえ」
と、店主が語る。
老紳士、帽子をかぶりながら、
「・・・・私もまだまだ修行ですな」
「一生修行ですか。まさに職人ですな」
賑やな街中を歩いていく老紳士。



・・・・
参考文献
中間
ウィキペディア(百科事典)の「小栗忠順」にご用心
東善寺(小栗上野介)
小栗上野介の日本改造
徳川宗家現当主
「旧大名家の子孫が多い学習院の歴史授業は難しい
(更新 2014/3/23 07:00)

小栗上野介忠順の炯眼 高原千尋の暗中模索
箕輪初心■東京&群馬:小栗上野介①
「小栗家の先祖&海外旅行前夜」

八重の桜と小栗の椿(1):隠居の思ひつ記
斗南藩歴史研究会
第11回 三野村利左衛門|コラム「三井を読む」|三井広報委員会
【幕末諸隊】侠客が多数参加してる部隊の一覧【草莽諸隊】
[抜書き]
『偽(いつわ)りの明治維新 会津戊辰戦争の真実』

会津藩の基礎知識

『覚悟の人 小栗上野介忠順伝』 佐藤雅美 角川書店
『罪なくして斬らる 小栗上野介』 大島昌宏 学陽書房
『小説小栗上野介 日本の近代化を仕掛けた男』
 童門冬二 集英社
『小栗忠順 第1部』 岳真也 作品社
『ジパングの艦 下巻』 吉岡道夫 光人社
『小栗上野介 忘れられた悲劇の幕臣』村上泰賢 平凡社
『最後の幕臣 小栗上野介』 星亮一 中公文庫
『偽りの明治維新』 星亮一 だいわ文庫 大和書房
『幕臣たちの誤算』 星亮一 青春出版社
『会津藩はなぜ朝敵か』
 星亮一 KKベストセラーズ 
『会津藩VS長州藩 なぜ“怨念”が消えないのか』
 星亮一 KKベストセラーズ
『敗者の維新史』 星 亮一 青春出版社
『小栗上野介忠順と幕末維新 「小栗日記」を読む』
 高橋敏 岩波書店
『幕末維新消された歴史
 武士の言い分江戸っ子の言い分』
 安藤優一郎 日本経済新聞出版社
『“好敵手”小栗と勝
 「国民」に脱皮したふたりの幕臣の確執』
 島遼作 文芸社
『評伝大鳥圭介 威ありて、猛からず』
 高崎哲郎 鹿島出版会
『大鳥圭介―幕府歩兵奉行、連戦連敗の勝者』
 星 亮一 中央公論新社
『隠された維新史』  早乙女 貢 広済堂文庫
『清水次郎長 幕末維新と博徒の世界』 高橋敏 岩波書店
『国定忠治の時代 読み書きと剣術』 高橋敏 筑摩書房
『江戸やくざ研究』 田村 栄太郎 雄山閣
『会津に恋して 幕末を戦い、
 明治を生きた25人の「最後の武士」 』
 小日向えり KADOKAWA(新人物往来社)
『るろうに剣心を彩った幕末維新明治の謀略と怪物たち』
 鈴木長月 (著) 加来耕三 (監修) ヴィレッジブックス
『戦国と幕末』 池波 正太郎  角川文庫
『会津人群像 no.26(2014)』 歴史春秋出版
『江戸風俗考証事典』 林 美一 河出書房新社
『オールカラーでわかりやすい!幕末・明治維新』
 永濱眞理子 西東社
『日本人なら知っておきたい江戸の武士の朝から晩まで
―オサムライさんたちの生活ぶりがひと目でわかる
博学ビジュアル版』
 歴史の謎を探る会(編) 河出書房新社
『大江戸生活事情』 石川 英輔 講談社
『図解・江戸の暮らし事典 決定版』
 河合敦 学研マーケティング
『ゼロからわかる江戸の暮らし―ビジュアル300点でわかる
江戸の町と江戸っ子の生活』 
 正井泰夫 (監修)  学研パブリッシング
『歴史REAL江戸大図鑑
(洋泉社MOOK 歴史REAL特大号) 』 洋泉社
『日経おとなのOFF 江戸学入門 』
 2012年 05月号 日経BP社
『男の隠れ家 異邦人が見た近代日本 』
 2014年12月号 株式会社 プラネットライツ


Mahler -- Symphony No. 2 'Auferstehung'

マーラー 交響曲第9番 第3楽章

プロコフィエフ ロメオとジュリエットより タイボルトの死

プロコフィエフ:交響曲第2番 第1楽章
ロジェストヴェンスキー

Tchaikovsky Romeo and Juliet
チャイコフスキー ロメオとジュリエット

ストラヴィンスキー 春の祭典
Stravinsky: Le sacre du printemps / The Rite of Spring


KODO 鼓童 「族」 和太鼓

Valley of Eternity. Marty Friedman

Marty Friedman - Triumph


2015.08.19
靖国神社はどうあるべきか? 青山繁晴「インサイト・コラム」
http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid1765.html

by huttonde | 2016-06-14 16:00 | 漫画ねた | Comments(0)
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