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by huttonde
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旧軍関連他
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連日お仕事で涼しい時間を・・・過ごせてない。
職場でも自宅でも汗だくというエコライフ。
3時間睡眠で目が覚める。
必然寝不足で、電車内で本の行は進まず、本を落とす。

貧乏を 暑苦しくも エコと言い 

夏だけ冬になればいいのにな。

来週から別の職場に移る。やることたいして変わらず。
いくらか楽になるような、変わらぬような。

暑いついでの熱い話。また写し。

Japan On the Globe(508)  国際派日本人養成講座
地球史探訪: インド独立に賭けた男たち(上)
~ シンガポールへ
誠心誠意、インド投降兵に尽くす国塚少尉の
姿に、彼らは共に戦う事を決意した。

■1.アテンション(気をつけ)!■

 1941(昭和16)年12月、タイからマレーシアに入った
国境近くのジットラの陣地はすがすがしい南洋の朝を
迎えていた。英軍が構築したこの陣地を、シンガポール
攻略を目指す日本陸軍第5師団が夜襲戦法で攻略した
ばかりだった。

 100人ほどの投降したインド兵を前に、参謀部付の
通訳・国塚一乗(かずのり)少尉が叫んだ。

 アテンション(気をつけ)!

 無気力状態だったインド兵たちは、急に目が覚めたよう
に、軍靴をカチッとならして、「気をつけ」をした。
さすがにプロの軍隊、それもインドから選りすぐって派遣
された兵たちである。緊張感を漲らせて、次の命令を待つ。

 「右向け右」「駆け足」と国塚少尉は、つぎつぎに命令を
下し、インド兵たちは見事にそれに従った。彼らの顔に、
畏敬の念が浮かぶ。「どうしてこの黄色い顔をした日本人は、
あの英人将校と同じように号令をかけて、われわれを自在に
動かせるのか?」

 訓練が終わると、国塚少尉はこう語りかけた。

 われわれは、けっして君たちを殺さない。
 敵性人とみとめない。友情をもって取り扱い、
 その生命と名誉を尊重する。

英語のできるインド兵がこれをインド語に訳した。
兵たちの顔にみるみる明るさがさしてきた。

■2.「なんといういい男たちだ」■

 日本軍はインド兵を殺さない、という噂が伝わると、
どこからともなく次々とインド兵が投降してきて、200名
ほどになった。国塚少尉は、急に200人の部下を持つ
隊長になってしまったわけである。

 まずは糧食を調達しなければならない。インド兵たちは、
近くに英軍が置き去りにした兵舎があるという。行って
みると、食料、酒、衣料などが山のようにあった。

 国塚少尉が「皆で大宴会をやろう」と提案すると、
皆は沸き立った。兵たちはインド料理を作って山のように
盛り上げた。国塚少尉が、インド兵と同じように手づかみ
で食べ出すと、歓声があがった。英軍将校はこんな事は
しなかったようだ。口が裂けるほど辛いカレーを食べて、
目を白黒させると、爆笑が起こった。そのうちに踊りが
始まり、国塚少尉も手拍子で和した。

 「なんといういい男たちだ。おれはこの連中のためなら、
どんなこともしてやろう」と国塚少尉は決心した。

 その思いはインド兵たちも同じだった。近くの飛行場を
修理する作業を始めると、彼らは「日本のこの若い少尉に
手柄を立てさせてやろう」と、4時間労働という英軍規定
など無視して、一心に働いた。仕事がおもしろいように
はかどった。

■3.F機関へ■

 そこにたまたま居合わせた中佐参謀が、インド兵たちを
見事に指揮する国塚少尉の姿に感動して、声をかけた。
「おまえは異民族を扱う天才だな。特務機関に入れてやる。
明日午前10時、軍司令部へ来い。」

 翌朝、軍司令部に出頭すると、30代半ばのがっちりした
体格で、軍人のくせに長髪の人物に引き合わされた。
藤原特務機関長・藤原岩市少佐であった。少佐に与えられた
任務は「インド独立連盟、マレー人、シナ人らの反英団体
との連絡ならびにその運動の支援」だった。藤原少佐は
陸軍大学で準恩賜賞を授与され、参謀本部作戦課という
中枢に配属されたエリート中のエリートであった。

 少佐はわずか6名の部下を率いて、F(藤原)機関を
創設し、マレー半島を南下する陸軍部隊の陰で、反英活動を
支援していたのである。特にマレー作戦の目的地である
シンガポールは、大英帝国の極東最大の要塞であり、護る
英軍10万の半分はインド兵である。彼らを敵にするか、
味方にするかは、マレー作戦の成否を左右する重大な鍵で
あった。

 藤原少佐の国塚少尉への第一声は、こうだった。

 皇軍の行う謀略は、誠の一字あるのみだ。至誠、仁愛、
 情熱をもって任務を遂行しなくてはならぬ。広大な陛下の
 大御心を、身をもって戦地の住民と敵に伝えることだ。

 藤原少佐は、自らの使命を「アジア各民族が独立協和する
大東亜新秩序の理念を実現するために、インドの独立と日印
提携の開拓を図る」ことと受けとめていた。それが陛下の
大御心であり、それを「至誠、仁愛、情熱」をもって遂行
しようとしていた。

 ちょうど「インド兵たちのためにどんなことでもして
やろう」と決心していた20代半ばの血気盛んな国塚少尉
は、この言葉に心の支えを得た。

■4.ジープにはためくインド国旗■

 藤原少佐は開戦前に、バンコクでインド独立運動を展開
しているインド人グループと接触し、そのリーダーの一人、
プリタム・シンをマレー戦線に連れてきていた。

 国塚少尉が藤原少佐を訪問する数日前、プリタム・シンと
気脈を通じている現地のゴム園オーナーから、英印軍一個
大隊がジャングルを逃走中である、との情報がもたらされた。

 藤原少佐は非武装で、プリタム・シンと通訳を連れただけ
で、その大隊を訪れた。インドの敗残兵たちは、シープに
はためくインド国旗を見て茫然として、戦意を失った。

 英印軍は大隊長のみがイギリス人で、中隊長以下はすべて
インド人だった。藤原少佐が投降を勧めると、インド兵達の
戦意喪失のさまを見ていた英人大隊長は、受諾した。
藤原少佐は、大勢のインド将兵たちに大声で語りかけた。

  諸君、私は、日本軍の藤原少佐である。ただいま、
 君たちの大隊長は、私の勧告を容れて投降文書にサインを
 した。私は君たちを、インド独立連盟のプリタム・シン氏
 と一緒に迎えに来た。

 プリタム・シンが、これをインド語に訳すと、
歓喜のどよめきがあがった。

■5.モン・シン大尉の決意■

 投降した一個大隊の中隊長の一人、モン・シン大尉が、
その後のインド将兵達のリーダーとなった。大尉は全将兵
を集合させて、きびきびと投降処置をとらせた。

 国塚少尉がF機関に入って与えられた任務が、この大隊
の世話と、モン・シン大尉との連絡役だった。藤原少佐は
モン・シン大尉と連夜、懇談を重ねて、日本軍と共に
立ち上がって英軍と戦うよう勧めたが、英軍から日本軍の
残虐ぶりを吹き込まれていたモン・シン大尉は、藤原少佐
の話を急には信じられなかった。自分たちを騙して英軍と
戦わせるための謀略かもしれない、と疑った。

 国塚少尉は、モン・シン大尉の疑いを解くには、大隊と
一緒に生活する自分が、身をもって日本人としての誠意を
見せなければならないと考えた。

 インド人は、古代の輝かしい精神文化やムガール帝国
時代の文化を誇りに思っている。しかし、イギリス人が
征服民族としてなにかと優越感をひけらかして、
彼らの自尊心を傷つけていた。

 国塚少尉は、インド人の心を捉えようとするなら、
彼らの文化伝統、生活習慣を尊重するしかない、と考えた。
そこで毎日、カレーを主としたインド料理を手づかみで
食べ、公務が終わると、インド人将校と同様に白い腰巻きに
着替えて、インド煙草を飲み、インド英語で話した。
そして、献身的にインド将兵の世話をした。

 モン・シン大尉が急に発熱して病の床に伏した時には、
国塚少尉は朝に夕に看病に努めた。額に手を当てる国塚
少尉を、モン・シン大尉は感謝の気持ちで見上げるように
なった。

 ようやく熱も下がった12月30日、モン・シン大尉は
国塚少尉に、全員一致でインド独立のために立ち上がる
決意を固めた、と語った。

■6.「インド国民軍と日本軍とは、
  同盟関係の友軍とみなす」■

 モン・シン大尉は、藤原少佐に日本側への希望事項を
文書にして渡した。「インド国民軍を編成し、最高指揮官を
モン・シン大尉とする」「インド国民軍と日本軍とは、
同盟関係の友軍とみなす」など、あくまでも独立国の
正規軍として立とうという決意に満ちていた。

 しかし、その希望事項を正式に約束するにはしかるべき
手続きが必要なので、実質的に希望に応ずるよう、
第25軍司令官の山下奉文(ともゆき)中将の認可を得た。

 立ち上がったインド国民軍の最初の任務は、英印軍内の
インド将兵を投降させ、自軍に引き入れることである。
そのために
モン・シン大尉は、自ら厳選した兵をもって、70名の
決死特殊工作隊を作った。5、6名を一班とし、これに
F機関員一人がついて、最前線を通過して敵地に侵入し、
インド兵を説得して、投降させるという作戦である。
前線を通過する際に、日本軍に間違って攻撃される恐れも
あるし、また英軍からも攻撃される危険な任務である。

 この作戦は成功し、投降するインド将兵は日を追って
増えていった。

■7.「さあ、俺のところに来い」■

 2月13日、英軍を撃破しつつマレー半島1千キロを
南下した日本軍はいよいよシンガポールを望むジョホール
バルに陣取って、総攻撃を始めた。英軍の主要抵抗線の
一つであるニースン兵営では、英軍のインド兵が必死の
抗戦を続け、日本の近衛師団の猛攻にも関わらず、
戦局は動かなかった。

 この状況を見て、インド国民軍の工作隊長アラ・ディッタ
大尉は、単身、英印軍一個大隊の最前線へ乗り込んでいった。
しばらく前方を睨んだ後、急に意を決して、身体をかがめて
走り出した。
「危ない! 撃たれる」と日本兵が思った瞬間、
大尉は仁王立ちになって、大音声で叫んだ。

  友よ。撃つな。俺は第22山砲連隊の
 アラ・ディッタ・カーンだ。
 日本軍はわれわれを殺さない、われわれの友人だ。
 戦闘を止めろ。

 意外な同胞の呼びかけに、敵陣は一瞬、射撃を止めた。
この機を、彼は逃さなかった。

  俺たちは、インド国民軍を作った。日本軍は味方だ。
 敵ではない。マレーには数千の同志がいる。
 さあ、俺のところに来い。

 アラ・ディッタ大尉はポケットからインド国旗を出して、
力一杯降り続けた。敵陣から2、3人が飛び出してきた。
それに遅れまいと、多くのインド兵が続いた。
ニースンの兵営の上に白旗があがった。

■8.「英軍降伏」■

 ニースンに駆けつける途中の藤原少佐は、副参謀長から
声をかけられた。「おい、藤原。エライことをやって
くれたな。これで英印軍は大動揺だ。
もっとジャンジャンやれ」

 激戦はまだまだ続いたが、その後、英軍はニースンの
出来事に懲りて、白人兵のみで抵抗を続けた。

 2月15日、藤原少佐の伝令がやってきて、「英軍降伏」
の報をもたらした。国塚少尉とモン・シン大尉が外に
飛び出すと、ジョホールの方にゆらりと観測気球があがり、
「敵軍降伏」の大文字をつり下げた。あちこちから、
いっせいに遠雷のような万歳の声があがり、こだました。

 ゴム園に避難していたマレー人、中国人、
インド人の老若男女が、歓喜の声をあげながら、
家路に急ぐ。

 マレー・シンガポール攻略戦は、1200キロの距離を
72日で快進撃し、兵力3倍の英軍を降伏させて、
10万余を捕虜とした稀代の名作戦として、世界の兵家から
賞賛された。その陰には、インド国民軍の活躍があった。



■9.「大尉とともに銃をとらん」■

 シンガポール陥落の翌々日、2月17日、まぶしい
ばかりの好天のもと、旧競馬場ファラ・パークに
4万5千名のインド兵部隊が集められた。

 藤原少佐が演説壇上に立つと、すべての視線が集まった。
自分たちは今後どうなるのか、と重苦しい空気が流れる。

  親愛なるインド兵諸君。私は日本軍を代表して、
 英軍当局から諸君を接収した。諸君と日本軍、さらに
 インド国民と日本国民との友愛を結ぶために参った
 藤原少佐であります。

 これが英語、さらにインド語に訳されると、
怒濤のようなざわめきが起こった。藤原少佐は続けた。

  日本の戦争目的は、一に東亜民族の解放にあり、
 日本はインドの独立達成を願望し、誠意ある援助を行う。
 ただし、日本はいっさいの野心ないことを誓う。インド
 国民軍、インド独立連盟の活動に敬意を表し、日本は
 インド兵を友愛の念をもって遇する。もし国民軍に参加
 したいものがあれば、日本は俘虜のとり扱いを停止し、
 運動の自由を認め、いっさいの援助をおこなう。

 数万のインド兵は歓声をあげて乱舞した。
幾千という軍帽が大空に舞い上がった。

 興奮の静まるのを待って、モン・シン大尉が壇上に
立った。大尉はインド国民軍の今日に至るまでの活動を
報告し、いまこその天与の好機に乗じて祖国のために
奮起することを望むと訴えた。全員総立ちになって、
大尉とともに銃をとらん、と呼号した。
(文責:伊勢雅臣)
(後略)
http://blog.mag2.com/m/log/0000000699/108827729.html

旧軍関連他_c0072801_134043.jpg

Japan On the Globe(509)  国際派日本人養成講座
地球史探訪: インド独立に賭けた男たち(下)
~ デリーへ
チャンドラ・ボースとインド国民軍の戦いが、
インド国民の自由独立への思いに火を灯した。
http://blog.mag2.com/m/log/0000000699/108850376.html

進めデリーへ Netaji "Chalo Delhi"

ニコ動

日本の武士道1 Japanese BUSIDO saved lives
(アンビリバボー イカヅチ号と英兵)
http://jp.youtube.com/watch?v=wRcOmYgdp4E
 
http://www.nicovideo.jp/watch/sm923093

2007年05月15日
ヒストリーチャンネル「日本の極秘軍用機」1
http://www.nicovideo.jp/watch/sm296723
2
http://www.nicovideo.jp/watch/sm296764

そんなに凝らなくても
輸送と潜水艦対策と見敵必殺やれば勝てたらしい。

棹の話とビルマの話

(略)
俺の知ってる話をいくつか。
・ニューギニア近くの孤島。日本軍は組織的戦闘はできる
ほど弾薬・糧食もなくなり、その抑えとして置かれた米軍も
大した規模ではない。双方とも積極的な作戦行動は
起こさなかった。
とある日、米軍宿営地まで忍び寄った日本兵が米軍の国旗の
棹を撃った。棹ごと国旗は落ちたが、報復として米軍も
日本軍の国旗の棹を撃ち、国旗を落とす。双方、しばらくは
相当ムキになって国旗の落とし合いをしたとか。

・ビルマのコヒマでは相当苦しい戦闘が繰り返され、
日英双方ともお互いの顔を視認できるまでの戦闘が
たびたびあった。
終戦後、収容所に入れられた日本兵が黒猫の徽章をつけた
英兵を見ると、「ヘイ、ユウコヒマ?」と話しかける。
すると向こうも32師団の桜の胸章を見て「オウ、
クリスマスケーキ(英兵にはそう見えるらしい)、
ユウ、コヒマ!」とタバコをくれたりしたそうな。

戦時中、戦場でほのぼのとした話し@軍事板
http://gunji.blog.shinobi.jp/Entry/230/

2007年08月21日 空の神兵 1
http://www.nicovideo.jp/watch/sm884248
2 3 4

2007/10/15 パラオの桜と英霊
http://specialnotes.blog77.fc2.com/blog-entry-759.html

旧軍関連他_c0072801_19414328.jpg

日本人以上に日本を大切にしている台湾の人たち
http://jp.youtube.com/watch?v=BHoWz2TipDk

日本軍が全児童にゴムまりを配っていた!?
2007年10月21日 00時00分 エキサイト

昔から女の子の遊びと言えばその代表として
“毬つき”があげられてきた。
でも、かつての毬は糸をぐるぐるに巻いたもので地面に
ついて遊ぶようなものではなく、手の平にのせて上に
つきあげて遊ぶ。地面に毬をついて遊ぶようになるのは
ゴムまりが登場してからだ。

今ではどれだけの子どもがゴムまりをついて遊んでいるのか
分からないけれど、少なくとも私の周囲では
見かけたことがない。
ところで、このゴムまり、意外なことで全国に普及していた。
ゴムまりというくらいだからもちろん、原材料はゴムなのだ
けれど、このゴムが大量にあまってしまったのでその使い道
としてゴムまりを作っちゃったというのである。

第二次大戦中の1942(昭和17)年に日本軍がシンガポール
を占領。ここで日本軍は一気に東南アジアの栽培ゴム園を
押さえることになり、日本だけでは処理できないほどの
大量を生ゴムを手に入れることになった。
そこで、これをどうするか、ということで処理する方法の
ひとつとして、とりあえずゴムまりを作って「戦勝記念」
として当時の小学校、国民学校の児童全員に配った
というのだ。
(後略)
http://www.excite.co.jp/News/bit/00091192890620.html

一方、同盟国の独国は、ゴム不足だったそうで。
一応潜水艦でゴム送ったりしてやったけど、危険な遠距離で
たかが知れてる。で、独国側は日本の潜水艦の騒音を知って、
Uボートの造り方教えてやったけど、
間に合わなかったそうな。

桃太郎 海の神兵
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1101023
 

2007年11月14日
じーちゃんは陸軍士官学校卒の偵察パイロットだった。

俺のじーちゃんは陸軍士官学校卒の偵察パイロットだった。
86歳の今でも当時乗ってた偵察機の写真や絵を眺めては
想いを馳せる、ばりばりの飛行機野郎。
そんなじーちゃんと、数日前飛行機の模型とかが
いっぱい飾ってある博物館に行った時の話。

博物館の奥には、日本をはじめとした世界各国の戦闘機や
偵察機の模型や資料が展示されてた。
じーちゃんは何か色々思うことがあるんだろう、
30分ぐらい自分が乗ってた偵察機の模型の前にいた。
俺はそんなじーちゃんをちょっと離れたとこから見てたん
だけど、そこへ老紳士って単語がぴったりな白人じーちゃん
が現れて、うちのじーちゃんに何やら声かけてた。
じーちゃんは英語出来ないからあたふたして、
慌てて俺が駆けつけた。

以下俺が通訳してのじーちゃんと老紳士の会話
(数日前だから多少脚色あるかもしれないが、
そこは勘弁w
じーちゃんξ゚⊿゚)ξ 老紳士(´・ω・`)

(´・ω・`)「貴方はこれに乗ってたんですか?」
ξ゚⊿゚)ξ「そうだ。それがどうした?」
(`・ω・´)「おお、私は幸運です!
     まさかジョーに会えるなんて!」
ξ゚⊿゚)ξ「??」
(`・ω・´)「この偵察機は、当時米軍で最も恐れられてた
     偵察機なんです。
     いつのまにか現れて私たちの情報を握り、
     いつのまにか消えていく。当時誰もがその日本の
     技術力の高さ、そしてパイロットの優秀さに
     感心してましたよ」
ξ゚⊿゚)ξ「……」
(`・ω・´)「私は基地で見てた身ですが、いつかあの偵察機
     とパイロットに会ってみたいと思ってました。
     その夢が今日叶いました! 握手してください!」
ξ゚⊿゚)ξ「……いいのか? 俺はあんたの仲間をたくさん
      殺したかもしれないんだぜ?」
(´・ω・`)「それは戦争ですから、しょうがないです。
     それに基地勤めたと言っても私だって軍に
     所属してた身です。間接的にたくさん大好きな
     日本人殺して、大好きな日本にあの恐ろしい
     爆弾も落としました。個人的には、日本に
     そんなこと、……したくなかったですが。
     ……ごめんなさい」
ξ゚⊿゚)ξ「謝るな。もう、戦争は終わったんだ」
(´・ω・`)「はい……」
ξ///)ξ「いいか、よく聞け。俺はアメリカが嫌いだ。
   だけど、お前は……嫌いじゃない」

じーちゃんが握手しようと手差し出して、
老紳士が嬉しそうに手を握った。

(`・ω・´)「ありがとうございます! 私生きてる限り、
     ジョーの素晴らしさ、パイロットの優秀さ、
     そして貴方の器の大きさ皆に語ります!
     日本人大好きです!」
ξ///)ξ「ちょ、直球すぎんだよ」

じーちゃんのツンデレっぷりに孫ながら萌えつつ、
老紳士に和んだ一日でした。ちなみに老紳士の「ジョー」
ってのは、日本の偵察機のあだ名みたいなもんだそうだ。
謎だったからwikiで調べてみたら↓こう記述してあった。
>連合軍は本機を“写真屋のジョー”とも呼び、“
ジョー”がやって来た数日後には必ず日本軍の攻撃がある
として、その飛来を恐れたという。
http://alfalfa.livedoor.biz/archives/51166999.html

特攻隊の遺言・リスト
http://www.nicovideo.jp/mylist/3738025

大日本帝国海軍(前編) 12
(後編) 12

米国製無知偏見入り。

楽観論再び

2008/8/31
JOG-mel No.562 井上成美 ~ 剛直、憂国の人生
http://www.melma.com/backnumber_115_4210204/

硫黄島関連

by huttonde | 2007-08-14 22:17 | 国内くっくり | Comments(0)
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