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トホホでもなし 45
靖国神社の徳川宮司「明治維新という過ち」発言の波紋
2016年6月20日 11時0分 NEWSポストセブン

 靖国神社が揺らいでいる。来る2019年に迎える
創立150周年に向けて徳川康久宮司が語った
インタビュー記事の発言が、波紋を呼んでいるのだ。

 記事は共同通信社から配信され、加盟する一部の地方紙
(静岡新聞6月9日付、中国新聞6月10日付)に掲載された
のみだった。ところが、地方でしか読まれないはずの
記事が各界の識者の注目を集め、にわかに論争へと
発展している。



by huttonde | 2016-06-20 19:50 | 国内くっくり | Comments(0)
時代劇 11
・・・・

次郎太は大胡から西に戻り、前橋から南へ下ろうと
田畑の広がる一本道を歩いていた。
目の前に待ち構えていたのは、見覚えのある若い男
二人と、更に若い、少年に見える男の三人だった。
「おい、次郎太、しばらくだなあ、捜したぞ」
真ん中の男は約十年前に、次郎太が道場で待ち伏せし、
木刀で殴りつけた一人だった。
「おめえに木刀でやられた近江だ。覚えてるか、
近江広之進だ。おめえのお陰で藩士の俸禄は
召し上げになっちまった。
道場と藩の名誉を汚したってな」
「・・・・」
次郎太は殴りつけた当時を思い出し、踵を返した。
「逃げるか」
広之進が怒鳴った。
「あと二人を覚えてるか。二人は死んだぞ。
おめえのせいだ」
広之進は憎しみで一杯の口ぶりである。
広之進の右に控えていた男も見覚えがあった。
「拙者は須藤与助、亡き兄左衛門の仇、
いざ尋常に勝負せよ」
そう叫んだ与助は次郎太と同い年で、
先に道場の門弟となっていた。
与助の兄もまた藩士だった。
「同門、佐々木健五、亡き兄健之助の仇、覚悟しろ」
(健五・・・・知らねえ)
次に叫んだ健五を次郎太は知らない。年の離れた弟で、
入門も次郎太がいなくなった後なのだろう。
広之進は笑顔で、
「次郎太、やっと会えて嬉しいぞ。おめえが城下の賭場に
隠れてたのを聞いてな、後を追ったがもういなかった。
去年の今頃、ようやく前橋付近で姿を見たって博徒達に
聞いたが、それもまた見失っちまった。
その後もわからなくて難儀したが、
その不細工なツラのおかげで、
博徒連中から知らせてもらってな」
次郎太は文之助と英五郎の二人を思い出すが、すぐに
英五郎の自宅から誰かが走り出て行くのを思い出した。
(・・・・英五郎親分が知らせたのか・・・・まさか・・・・
銭であちこちの下っ端どもに頼んだのか・・・・)
次郎太はボソッと、
「博徒なんて当てにしたのか。情けねえ奴だ」
「おめえほどじゃねえよ。方々捜して大変だったよ。
だが、これでお仕舞いだ。おめえを討ち取って俺は
藩士に戻る、この二人も念願の仇討ちが出来る。
助太刀が欲しけりゃ連れて来い。時と場所を決めて
改めて勝負としよう」
広之進と与助の剣は、稽古の甲斐あってか、
素人とは違うことは次郎太も知っている。
健五という若者も、道場で稽古を重ねてきて相応の
段階に達しているかもしれない。
助太刀といっても、その辺の者に頼めるものでもなく、
長らく苦楽を共にしたとはいえ、房太郎や兼吉に
頼むわけにもいかない。三左衛門も同様である。
(・・・・助太刀はいない)
「どうした、怖気づいて頭が真っ白か」
広之進は愉快そうに笑った。
次郎太は無表情に、
「ここでいい」
ボソッと答えた。
広之進は意外そうな表情を示したが、
「そうか、覚悟を決めたか。潔いいな。ならばここが
おまえの見納めの場だ。念仏でも唱えておけ」
広之進も与助も健五も手早くたすき掛けにし、
鉢巻をすると抜刀した。

・・・・

男三人が並べば通れない細いあぜ道で、次郎太は辺りを
見廻した。左右共に豊かな麦畑が広がり、
右側の一角には桑畑が見える。
特に珍しくもない、ありがちで平穏な景色である。
「次郎太、抜けや」
広之進が前へ出て、三人揃って刀を構えた。
次郎太は困った風な様子で、辺りを見廻している。
「どうした、怖気づいてどうにもならぬか」
と、広之進が怒鳴るが早いか、
次郎太は踵を返して走り出した。
「逃げるか」
三人も追った。
次郎太の思い切った走りはなかなかの早さだったものの、
三人の脚力もまた引けを取らない。たいして差がつくことも
なく、次郎太は後ろを見るもかまわず走り、左側へ向かう
あぜ道に走って行き、桑畑に勢いよく入り込んだ。
広之進が次郎太の後ろへ続き、与助と健五が左右の
畝(うね)に走った。
春のこの時期この辺の桑は、まだ株から伸びた枝にいくらか
の葉が茂り始めたところだったが、その高さは次郎太の
胸ほどあり、人が横切るには邪魔な、
隙を与えない並びになっていた。
次郎太は息も荒く桑畑の真ん中で抜刀して止まると、
広之進に向きを変え構えた。
広之進も大きな息を吐いて、
「ようやく覚悟したか」
と、口元を緩めた。
次郎太の左右前方にも、
桑越しに与助と健五が構えている。
広之進は次郎太を見据えたまま、
「仇討ちは本来一対一だ。
助太刀に頼れば俺の名折れになる。
仇討ちの名目が立たぬ。
おまえが一人なら一人で相手してやる。
与助と健五は手出しするなよ」
次郎太は後ろへ一歩下がり、広之進は一歩進んだ。
「もはや運の尽きだ。あきらめろ」
広之進は息も整い、落ち着いた様子になっていた。
次郎太はこの危機的状況の中で、これまでのことが走馬灯の
ように思い出された。道場から逃げ出し、賭場に住み込み、
江戸へ出てさまよい、小栗に拾われ奉公の日々、剣術道場
での稽古や根付の感動、伝習隊一員としての訓練、そして
権田村での暴徒相手の活躍、夫人方を護衛して会津への
逃避行、また上州に戻り、野州へ移っての再会の面々、
長く寒い山村での潜伏、ようやくの江戸、駿府行きに、
小栗の首級の取り返し、そして別れ・・・・。
一瞬のはずが、時が長く感じられた。
(これで終わりか・・・・)
と、次郎太は気づいた。地面は硬い。が、草鞋で削れない
こともない。犬が掘るように、次郎太は右足のつま先で
軽く地面をつついた。
「なんだ、犬っころの真似か」
広之進は刀の柄(つか)を強く握る。
次郎太は前傾姿勢を取りつつ、
つま先で地面をつつき続けた。
「いかにも、おまえは犬死が相応しい」
広之進は刀を振り上げた。と、次郎太は右足を蹴り上げた。
つま先で崩れた土はそのままつま先に運ばれ、
広之進の顔にかかった。
「むっ」
広之進が顔を僅かに背け、柄(つか)を持つ両手で防ぐと、
次郎太は突っ込み、大きく袈裟懸けに左小手を斬りつけた。
「あっ」
左手首は勢いよく下へ落ち、広之進の体が左へ傾いた。
斬り下げた次郎太の脇差は向きを変えて直ちに広之進の
右へ上がり、首に叩きつけ、手前へ引っ張られた。
首からは軽く血しぶきが見えた。
広之進は首をすぼめる様にして左膝を着き、
仰向けに倒れ込んだ。
左にいた与助は、ひきつった顔で、
「おのれ次郎太、俺の兄まで殺しやがって、
たたっ斬ってやる。首を出せ」
と叫び、怒号を発しつつ桑越しに刀を振り回して来た。
刀は桑の枝にもかかって、枝は細かく切り落とされた。
次郎太はようやく声を出した。
「与助、待て、俺は当時、散々我慢した上での仕返し
だった、二人が死んだことは知らなかったし、
おまえがその弟だったなんて知らなかったんだよ」
「言い訳になるかっ」
与助は下がる次郎太へ迫りつつ勢いよく刀を振り回し、
刀は桑の上で空を切り、ときに枝を切り払った。
「与助、俺がどんな立場で、どんな目に遭ったか
知ってるだろうが」
当時、次郎太への三人のあからさまな悪意は、
与助も知らないはずはなかったが、素知らぬふりを
装っていた。彼は彼の立場があり、強く諌めるにも
勇気が要ったのかもしれない。
しかし今、次郎太への遠慮会釈の無い恨みごとに、
次郎太も腹が立ってきた。
「与助、おめえ、本気で俺を殺してえのか」
「当たりめえだ、ぶっ殺す、俺が兄に代わって藩士になる」
(恨みと野心ということか・・・・)
次郎太は与助の振り回される刀をよけつつ、
桑の枝葉に姿を隠すように腰を低くして後退する。が、
与助の刀が左右へ何度も振り回されるのを見透かした
次郎太は、枝葉の間から与助の胸に思いっきり脇差を
突き刺さした。
与助の動きは止まり、次郎太は脇差をひねると引き抜き、
退いた。
与助はそのまま上半身に枝葉がぶつかるのもかまわず
前へ倒れ込んだ。
「おのれ・・・・次郎太・・・・・・」
枝で傷をつけた顔を次郎太に向け、恨めしい目で睨んだ。
右にいた健五は予想外だったか、緊張の面持ちで、
「佐々木健五、我が兄に仇なす次郎太の首、貰い受ける、
勝負」
と叫ぶが、声は上ずった。
健五もまた与助同様に刀を振り回し、次郎太が避けつつ、
「健五、俺はおめえを知らねえ、おめえも門弟なら話は
聞いてるだろ」
と、後ずさりする。
「おいやめろ健五、考えろ、おめえ、俺を斬ったとして
目の前の二人をどうすんだ、俺を斬ればおめえの言う
仇討ちは果たされるだろうが、二人が死ねば四人だ、
道場も藩も恥の上塗りだ」
「それがどうした」
「おめえは年は幾つだ」
「十六だ」
「仇討ちでしくじれば、二度はねえんだぞ、
先を考えろ」
「うるせえ、黙って斬られろ」
振り回した剣先は枝を何本もなぎ払い、
健五の殺意を示した。

次郎太が後ずさりを続けることに苛立ったのか、
「次郎太、俺に斬られろ」
と、健五は刀を振り回しつつ、次郎太のいる左の畝に
移ろうと枝を強引に分け入ってきた。
枝を避けようと健五が両腕を上げた瞬間、次郎太が
峰打ちで健五の右小手を叩きつけ、衝撃と激痛から
刀は前方へ転げ落ちた。
「あっ」
慌てた健五が脇差の柄に手をかけたところ、
次郎太の脇差が健五の右腕に素早く当てられた。
健五が自分の脇差を抜こうとすれば、いやでも右腕
はざっくり斬られることになる。額から汗が流れ
落ちる健五は枝に挟まれ、次郎太の脇差で身動きが
出来ない。
「健五よ、俺の仕返しはたしかに正式な仇討ちとは
違ったが、散々我慢した上での報復だ。仇討ちが
正しいなら俺にも分がある。むしろ、おまえらの
やってることは逆恨みだ」
健五は次郎太を睨んでいる。次郎太はかまわず、
「仇討ちはな、二度は利かねえんだよ。わかるか。
ざっと十年前、俺が返して終わったんだよ」
「だったら俺はどうなるんだ」
「あいつらと同じで、餓鬼のおめえが馬鹿だったんだよ」
「なにをっ」
右手に力が入るが、次郎太の脇差が動きを許さない。
次郎太は諭すように静かに、
「道場と藩に命令されたんなら、逆恨みで返り討ちに
遭うのは恥の上塗りだと言っておけ。
二度とこんな醜態を晒すな、とな」
「・・・・・」
「手を下ろせ健五。勝負は決まりだ」
健五はゆっくり両手を下ろした。
「俺はおまえに恨みなどない。だから斬らない。が、
ごり押しされたら俺も抵抗する。勝手な理屈は俺も御免だ。
兄想いは大事だが、不当は許さねえ」
「・・・・・」
「あちこちで戦があった。知ってるだろ。蝦夷地では
まだ続いてる。藩だの何だの、もうそんな時代じゃねえぞ。
おめえは俺なんぞ無視して、本当に自分のやるべきことを
やれ。役目を担え。まだ若ぇじゃねえか。これからだろうが」
何年も仇討ちにこだわり、ひたすら稽古を積んで来たで
あろう健五の目には涙が潤んでいた。
次郎太が斬らないことが判って緊張の糸が切れたのか、
次郎太の忠告に何やら感じ入ったのか、涙は頬を伝って
地面に落ちた。
次郎太は抜刀のまま健五から離れ、
健五は落ちていた刀を拾い、鞘に納めた。
「帰れ」
次郎太の一言に健五は無表情のまま、しばらく
俯いていたが、次郎太に一礼するとその場を離れた。
健五が遠く歩いて行くのを見届けると、
次郎太はその場に力なく座り込んだ。

・・・・

慶応四年(1868)五月二十四日、薩長を中核とする明治
新政府は、蟄居謹慎中の慶喜に代わって田安亀之助
(徳川家達 いえさと)を徳川家の相続者とし、
駿河・遠江・陸奥等で七十万石が与えられた。
府中(駿府)では天皇や政府に対して不忠として
静岡藩となった。
しかし、これまでの幕府天領や旗本領の総計約七百万石と
比べて十分の一の石高では、集まってきた旧幕臣達を養える
わけもなく、生活扶助も限界があり、家達は自活を訴えた。
無理がある藩財政は当然悪化した。その為、旧幕臣の
渋沢栄一により財政再建が行われ、後の静岡茶など、
旧幕臣達による特産品の開発などが推し進められた。
人材不足の新政府からは幕臣達へも誘いはあったが、
彼らの多くは不遇を承知で断っていた。武士は二君に
仕えずという武士としての矜持があった。

九月になると慶喜は謹慎を解かれた。駿府の小さな寺院、
宝台院から与えられた元代官の屋敷に移り、妻の美賀子や
側室の一色須賀、中根幸、新村信なども東京から呼んだ。
政治活動は禁じられていたが、比較的行動は自由だった。
家達や旧幕臣達には、徳川家を滅ぼした張本人としてひどく
嫌われて気まずい、つらい思いもあった。
徳川一族が集まったときは、床柱に座っていた慶喜に
対して家達が、
「私の座る場所がない」
と慶喜を睨み、慶喜は渋々席を譲ったという具合で、
判断に欠けるのは相変わらずだった。
このときは小栗の盟友だった栗本鋤雲(瀬兵衛)も
列席したが、末席にいた勝海舟に、
「どけっ」
と一喝したという。
勝もまた慶喜同様、戊辰戦争では既に我が事は終えたりと、
知らん振りを決め込み、江戸城開城の顛末を自慢げに
周りに話すのを好んだ。
「この東京が何事もなく百万の市民が殺されずに済んだのは、
実に西郷の力で、その後を引き受けてこの通り繁盛する基を
開いたのは、大久保利通の力だ。あのとき俺は罪も無い
百万の精霊をいかにして守ろうか苦心したが、ただ至誠を
もって官軍に利害を説くばかりだった。官軍が聴かなきゃ
それは官軍が悪いんだから、俺に非は無い。その場合は
最後の一戦をしてやろうと決めたのさ」
と、矛盾に気づかず、
「維新の際に大鳥とか榎本とかいう豪物、お家のためだと
いって箱館に逃げたが、俺は愚物は到底話しても分かるまい、
いずれ悟るだろうとうっちゃっておいた。彼らははたして
後悔するときが来たよ」
「小栗は幕末の一人物だよ。あの人は精力が人に優れて
計略に富み、世界情勢にもほぼ通じて、しかも誠忠無二の
徳川武士で、先祖の小栗又一に似ていたよ。一口に言えば、
三河武士の長所と短所を持ち合わせていた。しかし度量が
狭かったのはあの人のために惜しかったよ」
という具合に旧幕臣達を腐した。
彼もまた元気で、自宅に出入りする女中などに手をつけ、
妾にして一緒に住み、慶喜の十男精(くわし)を養子にし、
明治政府の顕官となり、晩年は伯爵の爵位を得るなど、
我が世の春を謳歌した。
例外的ともいえる恵まれた境遇をうらやみ、恨む声には、
「そりゃぁもちろん、俺の才覚だよ」
とほくそ笑んだ。
もっとも、妻民子はうんざりしていたらしく、
「私が死んだら、あの人と同じ墓には入れないで下さい」
と遺言し、七十七歳で勝が亡くなった六年後に亡くなり、
やはり親父譲りか、息子の精は民子を
勝と同じ墓に入れている。

慶喜が周りから嫌われようとも、それでも身の危険が
あるわけでもなく、生活費は徳川宗家から定期的に
送られて来ており、何もせずとも食える身の上である。
彼は毎日を趣味で暮らした。乗馬、弓、狩猟と楽しみ、
家での囲碁も初段に進み、謡曲も評価された。和歌も嗜み、
写真や油絵、陶芸、刺繍、当時はまだ珍しい自転車にも
挑戦した。
毎日遊ぶだけでなく食事にも気を遣い、鯛、鮪、
ヒラメの刺身や、ウニやナマコ、鶏卵の半熟を好んだ。
旧幕臣達の窮乏などには無関心だった。
また、心身充実して、側室による子は十男十一女となった。

・・・・

会津藩が降伏直前、離れていた大鳥ら伝習隊と土方は仙台で
再会した。また、京都守護職に反対し、その後も非戦論を
説いて容保と対立、罷免されていた西郷頼母も、
戦が始まってからは
「もはや城を枕に討ち死にすべし」
と会津降伏に反対し、
それが叶わぬと分かると仙台まで逃れていた。

仙台には勝海舟が「戦は負ける、無駄だ」と引き止めるの
を拒否して、江戸より寄港した榎本率いる旧幕府軍の
艦隊があった。
榎本は以前に蝦夷、樺太を航海し、情勢も把握している。
慶喜の助命と幕府温存だけでなく、旧幕臣達や浪人などに
よる蝦夷地開拓と、露国などからの防衛の必要も考えていた。
艦隊は旗艦開陽丸に回天丸、蟠竜丸(ばんりゅうまる)、
千代田形の軍艦と、咸臨丸(かんりんまる)、長鯨丸
(ちょうげいまる)、神速丸(しんそくまる)、長崎丸、
美嘉保(みかほ)の五隻を輸送船として計九隻あり、
伝習隊の教官でもあったフランス陸軍士官のブリュネ達
五人も参謀として乗り込み、陸海軍総勢約三千五百人
という薩長側海軍を凌ぐ兵力だった。

戦力温存の榎本艦隊であれば、やりようで事態打開も
図れると考えたが、八月二十二日、銚子沖から鹿島灘で
台風によって美嘉保は漂流大破し、咸臨丸は清水港まで
流された。
咸臨丸は米国西海岸まで航行した実績ある船だが、
既に老朽化していた。榎本艦隊の一隻として回天丸に
曳かれて南下していたが、横須賀の観音崎で座礁、
台風により回天丸の曳き綱を切って漂流し、
駿府藩の外港の清水港に避難した。
蟠竜丸が救援に向かうが、警戒して外浦に入津、
伊豆の安良港で修理すると仙台の榎本達に合流した。

清水港に寄港した咸臨丸には約二百名が乗船していた。
艦長の小林文次郎、副長春山弁蔵、弟鉱平と水夫らは自首
して藩主家達の判断に任せる覚悟だったが、ようやく
認められた徳川領ともいうべき駿府藩に、朝敵とされる
榎本艦隊の一隻が現れたことに困惑した。
山岡鉄舟は、以前は幕府内での攘夷派だっただけに分別に
欠ける面があるが、その豪胆さは誰もが認めるところであり、
半年前に西郷と勝の江戸開城交渉の下準備に活躍したように、
今回の騒動でも地元の侠客清水次郎長の協力を得て、
咸臨丸乗組員と話をつけ、先に手を出さないように強硬派
らしき者達を清水村や三保村に分散させて民家に隠し、
船の修理のため鉄砲や器械類を陸揚げして、乗組員だけ
残して恭順策を図るつもりだった。
しかし、艦隊の江戸脱走を知って警戒していた西軍は、
九月十八日、半年前に榎本より引き渡されていた富士山丸
で飛龍と武蔵の両艦を従えて清水港に入ると、停泊中の
咸臨丸にいきなり砲撃を始めた。
甲板上で白布を振って停戦降伏の意思を伝えるも西軍側は
無視し、その後やむなく白兵戦となるも多勢に無勢、
船に残っていた約二十名が殺されて遺体は海に捨てられ、
下船中で生き延びた者も捕まり、艦長の小林は東京糾問局
に送られて入牢となった。
国際法を知らなかったのか、咸臨丸を恐れたのか、
やらかした柳川藩は罰せられることもなかった。
幕府を想って活動していたであろう咸臨丸の乗員達を、
駿府藩は援護救援することも出来ず、遺体処理を禁ずる
西軍の通達にも従うしかなかった。
遺体は砲撃によって首や手足の無いまま腐乱死体として
近海を漂ったままだった。
幕臣として手を出せない鉄舟は、地元の有力者の次郎長に
相談した。次郎長もまた駿府藩と西軍の政治的対立、
緊張状態は理解している。
そこで次郎長の義侠心が発揮された。
「山岡さん、亡くなった方々も国のために一心に活躍された
方々でしょう。うちらが御遺体を集めてお弔い致しましょう」
清水一家は夜密かに港内で遺体の収容を始め、春山兄弟ら
七名を新開地の向島の古松近辺に埋葬した。
結果、西軍と駿府藩からも批判されたが、
「どっちが官軍だの賊軍だのこだわってるが、互いに入れ
違ってもおかしくはあるまい。死んだ者をほったらかして
何が官軍だ、忠義もクソもあるか、士道も人道もねえなら
俺らが仁義を通してやるまでだ。ここは漁港でもある。
漁師も生活してんだ。天下の官軍が漁師の暮らしを邪魔
しようってのか。死んだら弔うのが人の道じゃねえか。
こっちはやましいことは一つもねえ。疑うならどこへでも
出てやるよ」
と啖呵を切った。
翌年、向島の埋葬地に、鉄舟による「壮士墓」と揮毫した
墓碑が建立され、鉄舟から次郎長に一詩を送り謝した。



by huttonde | 2016-06-14 15:20 | 漫画ねた | Comments(0)
時代劇 5
・・・・
次郎太は大鳥軍が活躍することに期待しながらも
大鳥軍が後に来る日光街道の終点今市へ向かい、
(どうせまた面倒になるだんべ)
と、地元の米問屋へ行って米を十俵程を買い込むと、
地元の雲助(くもすけ・運び屋)を雇って荷車を出し、
馬子を雇って途中まで馬に乗って更にそのまま山深い、
後に云う「会津西街道」を北上した。
会津南部に西街道の東に位置する会津中街道は会津と
江戸の最短距離だったが、険しい山道は暴風雨や積雪など
で通行が遮断されるなど、主要道路としては不適として
脇道となっていた。
しかし、地元住民は江戸と会津をつなぐ主要道路として、
西街道と共に南北から来る積荷の運搬などで収益を
上げていた。

会津へ至る野州北部も同様で、日光や今市から会津国境も
また山道が続き、条件は同じだった。勝っても負けても
大鳥達は会津へ行くかもしれない、また、二千人に及ぶ
大所帯ならば食糧が足りなくなることは必定とみて、
大鳥軍が会津へ入る際に、食糧として使ってくれることを
考えて、国境にある五十里村の名主に話をつけると、
小額を渡して米を五俵預かってもらった。
また、会津領内に入ると、警備の藩兵に話し、しばらく
進んだ横川村にも同じく五俵を預かってもらって、馬で
まっすぐ西街道を通って、一行がいるであろう若松城下を
目指した。

途上、会津藩兵の部隊が野州方面へ移動する姿が見受けられ、
会津藩もまた野州方面への防備が進んでいることを思わせた。
村人に念入りに聞いて進んだものの、行けども行けども
山また山の景色に、狐に化かされた感覚が襲った。

地元の馬子には当然の景色で、
「まあ、こんなもんだよ、この辺はね」
とのんきそうである。

〽 ゆくに遠いが ゆかねばならぬ
  馬の供して 飯を食う

馬の蹄の音と荷車の軋む車輪の音の中で、
馬子が一節唄った。
「俺らぁ会津と野州をつなぐ運び屋だで、
面倒承知の商売さね」
次郎太は荷車に揺られながら山々を見ている。
馬子は気にせず話す。
「この時期はええよ。なんたって雪の苦労がねえからね。
さすがに冬はぼやかいね」

・・・
追撃を受けて数十人の戦死者を出しつつ宇都宮城から
撤退した大鳥軍は、なんとか西軍を振り切って
北北西の日光に向かった。日光には宿坊も多く、大鳥の
軍勢を駐留させるのに適している上、徳川家の霊廟の地でも
あり、地元の協力も望めた。
しかし、現地へ着いて猟師達へ加勢や町民へ炊き出しを
求めると、戦を心配した各寺院から部隊の移動を
要請された。
また、参戦している旗本からも、「兵疲労困憊にして
食糧弾薬も尽きかけた今、ここで戦となっても勝利は
望めず、そのために大廟が灰燼に帰すことになれば、
我ら幕臣の面目が立たぬ」と反対意見も出され、
東の今市宿へ移ることにした。

・・・・

次郎太が若松(鶴ヶ城)城下に着いたのは九日程経っていた。
夫人一行が会津藩重臣で若年寄の横山主税(ちから)常忠
という人物を頼るべく目指していたことは聞いていた。
横山は慶応三年(1867)正月、将軍の弟の徳川民部(昭武)
を代表とする遣欧使節団に随行して半年間を過ごした一人で、
渡航前に小栗から指示、指導を受けていた。また、小栗が
江戸から退く直前には、罷免を伝え聞いた会津藩から誘いが
あり、小栗はやんわりと断っているが、その関わりは
続いていたらしい。

次郎太は横山邸の門番に事情を話したが、
一行は来ていないという。
(俺が早かったのか)
次郎太を知った横山が門番を通して中へ入るよう促したが、
一人入ったところで手持ち無沙汰であり、なにより横山に
ついて次郎太は何も知らない。失礼があってはまずいし、
「一行が着いたら改めて共に挨拶に」伺うと言い残し、
近くの旅籠で様子を見ることにした。
ところが翌日になると、横山本人らしき馬上の者が
武装した多くの家来を引き連れて邸宅を出て行った。
(あれ、戦か)
門番に聞くと、
「ええ、城に呼ばれて西軍に備えるそうです」

・・・・

閏四月下旬、小栗夫人一行がようやく若松城下に
到着し、頼みの横山邸前に着いた。
隊長の中島三左衛門が疲れながらも笑顔で、
「ここだ、横山様の邸宅だ」
銀十郎は辺りを見回しながら愉快そうに、
「次郎太の奴、やっぱり来てねえな。
今頃どっか逃げ回ってんかな」
と笑うと、
「俺がなんだって」
と、次郎太が銀十郎の耳元でささやいた。
「うわっ」
驚いて仰け反った銀十郎に、
「何がうわだ、この野郎」
と、表情も変えずつぶやいた。
「なんだぃ次郎太、来てたのか」
三左衛門が笑顔で声をかけ、次郎太は夫人と母堂に、
「次郎太、路銀の工面と知らぬ道をたどりまして時間が
かかりましたが、決して逃げ出すことなく、約束通り
参上致しました」
深々と一礼すると、銀十郎は、
「けっ、嫌味ったらしい言い草しやがって」
と苦い顔をし、皆が笑って次郎太との再会を喜んだ。

・・・・

一行が揃ったが、横山は会津藩軍の軍事副総督として、
会津領内へ迫る西軍に備えるため留守にしていた。

一行は横山の親族に挨拶も早々、横山の悲報に接した。
会津南部、白河口を守備していた横山ら会津・仙台の
連合軍二千は、北上した一千程の敵と交戦し、会津側は
戦死者二百余人にのぼる惨敗だった。
指揮を執っていた横山も銃弾を受けて戦死した。
享年二十二。
前回、手薄になった敵の隙を衝いて、野州より合流した
大鳥軍の協力も得て白河城を奪還する活躍だったが、
再度の交戦となり、激しい撃ち合いの中で横山の遺体を
運ぶことが出来ず、家来が首だけを取って自宅まで
運んでの報告だった。
笑顔で一行を出迎えていた横山の母と、幼い子を抱いた
若い妻はたちまち表情を変え、一行もまた暗然とする中、
藩主容保との挨拶もそこそこに、横山の葬儀に参列すること
となった。

会津には江戸から脱出、逃げてきた職人や医師、町火消し
などもいて近況を話すこともあり、家老の西郷頼母や
その従者からも接触が続けられたが、夫人の出産も近づき、
主無き家に居るわけにもいかないとして、西郷頼母の
配慮により、一行は城から二里(約8キロ)離れた
野戦病院として使われている南原の民家へ移り、
戦況を見守りつつ滞在することになった。

血気盛んな銀十郎は、このまま漫然と日を送るよりも、
小栗一行を快く引き受けた会津藩への恩返しのために
参戦すべきとしたが、次郎太は断った。
「護衛は殿の奥方様と御母堂様だで、会津藩でねえよ」
「会津は西軍と戦ってんだぜ、ほっとけるかよ」
「おめえはいつから会津藩士になったんだ?
役目やめんのけ」
「世話になってる会津藩へ恩返しはすべきだろうが。
俺らだけ知らねえなんて、どの面下げて言えんだよ」
「役目違いだ。おめえが加わって戦が変わんのけ」
「何もしないのは卑怯もんだ、
小栗一行は腑抜けかと謗りを受ける」
「俺らを頼るようじゃ、会津も終わりかな」
「おめえは、状況がわかんねえのか」
「わかってるから言ってんだ。俺らが加わって
解決するとでも思ってんのか。そりゃ思い上がりだで」
憤激する銀十郎に、次郎太はあくまでも素っ気ない態度で、
持っていた根付を黙々と彫っている。
銀十郎は次郎太の前に置かれた彫刻刀などを蹴散らすと、
「殿の家来になりながら、おめえまで命が惜しくなったか、
これは殿の仇討ちでもあるんだぜ、相手は鬼畜の西軍だ、
敵を目の前にほっとけるか」
と怒鳴りつけた。
「・・・・・・」
次郎太は一瞬顔色を変えたが、すぐ思い直したように、
「奥方様方をほっといて忠義とかこくつもりか」
「なにっ」
「戦で大活躍して死ねばおめえは満足だろうが、
残された奥方様方はどうなる。あとは知らねえってか。
それがおめえの忠義か。死にたきゃ勝手に死ね。
俺らまで巻き込むな」
「おめえ、こんな状態なのに、卑怯とは思わねえのか。
俺らは戦場に来ちまってんだぜ。恩ある会津が戦場に
なって大変な目に遭ってんだろうがよ、
ほっとけるかって言ってんだよ」
銀十郎も負けずに怒鳴る。
言い合う二人に夫人は、
「銀十郎の言う通り、恩ある会津藩を放っておくのは
良くないでしょう。殿がいれば力を貸したと思います。
ここはまだ無事だし、加勢出来る者は城へ向かって下さい」
隊長の中島三左衛門は夫人に同意して、
会津へ加勢する者を確かめた。
加勢を決めたのは佐藤銀十郎、塚越富五郎(富吉)、
池田伝七郎、佐藤福松の四人で、隊長の中島と娘のさい、
次郎太と房太郎、兼吉などは残ることになった。

その後、銀十郎らは会津軍に加わって越後や白河などに
転戦した。

・・・・

五月一日には西軍によって再び白河城を奪われ、
会津藩は約二百人の戦死者を出した。
会津藩への同情や強硬な長州の木戸孝允への反発、また、
その家来でもある世良修蔵による東北諸藩に対する傲慢さに
憤慨した結果、三日には奥羽越列藩同盟が結成された。
しかし、会津も仙台も迫る西軍に弱腰で、激しい砲撃を
食らうとたちまち退却するといった有様で、
大鳥は激怒した。
「同盟に安堵して戦う気概を失ったのか、数ばかりで分が
悪ければすぐ逃げ出すようでは烏合に過ぎぬ、これでは
到底勝てる戦も勝てぬではないか」

弾薬は限られ、会津や仙台と共闘しようにも、途中で
逃げ出されては作戦実行もままならない。強力な砲撃で
攻め立てる西軍が強いだけでなく、味方の連携の無さに
作戦の不調が目立ち、大鳥は度々嘆くことになった。

大鳥や土方は会津方として容保や側近にも献策したが、
その対応は鈍く、大鳥達を警戒するような態度も見受けられ、
「会津は因循姑息の性質で、新規の意欲に欠ける」
と、その体質に困惑した。
大鳥の部隊将兵は身命を賭して会津方として転戦し、
多くの死傷者を出していたが、一方の会津側は大鳥達に対し、
「大鳥は兵学を究めたとしながら戦法実践は稚拙であり、
弾薬など準備は常に不足し、悉く裏目に出る有様で・・・・」
と、味方の敗退を大鳥の失態と捉えていた。

・・・・

薩長ら西軍と東北諸藩の戦が始まって間もなく、
道子夫人は女子を生んだ。命名国子。
重苦しい状況の中、夫人の子の誕生の報は、一行だけでなく
会津藩全体にも吉報として喜ばれたが、西軍の侵攻は続き、
六月二十四日、棚倉城が落ちると、翌七月四日にはいち早く
秋田藩が離脱、二十九日には二本松城が落城、越後では
北部の新発田藩も降伏し、奮戦する長岡を挟む形になった。
やがて河井継之助が指揮する頑強な長岡藩も敗れ、
河井は傷を負いながら会津へ逃げる途中、南山御蔵入の
塩村で治療の甲斐なく没した。享年四十二。

八月二十一日には会津藩北東の母成峠が破られた。ここには
大鳥達の伝習隊も激戦の地と予想して待ち構えていたが、
西軍の砲撃は激しく、左右の陣を守るはずの会津と仙台の
兵は退避してしまった。
劣勢の大鳥達は反撃もままならず、その上後ろを
回り込まれて絶体絶命の危機に陥った。
やむなく退却となったが、この混乱時に総退却の報告は
城下へ届かなかった。
この後、会津や仙台軍は早々に散り散りに逃げ出し、
大鳥達も激戦の地から部隊将兵ともばらばらに分かれて
脱出し、僅かな供と険しい山を越え、飢えに苦しみ、
時に道に迷い、谷から滑落するなど危険を冒しながら
必死の思いで近隣の米沢藩へ向かった。
しかし、板垣ら西軍の勧めもあって、米沢藩はすでに
降伏恭順に傾いていた。

退却と混乱の彼ら会津や仙台軍の一方、西軍は侵攻の
速度を緩めることなく、まもなくその西方、若松城の
目前の猪苗代城を落とした。

離れ離れになっていた部隊将兵らと合流しつつ、米沢藩で
弾薬などの補給を考えていた大鳥達は米沢の拒絶に進退
窮まったが、人道に基づいて九十人に及ぶ怪我人を仙台に
運ぶとして、ようやく通行の許可を得た。

協力的だった米沢藩は会津に騙されたと西軍に弁明しつつ
降伏、新潟港は西軍に奪われ、スネル兄弟も拘束されて、
会津向けに荷下ろしされていた武器弾薬も西軍に
押収された。

八月下旬には西軍来襲の知らせに若松城下は驚き慌てるも、
城下に残る者達は必死に迎撃の態勢を急いだ。
この後、大鳥は窮地に陥った会津を放っておけないとして
会津は桧原(ひのはら)に戻ると、その報は各地に伝わり、
第二大隊と伝習隊将兵約二百人とも再会し、会津藩から
弾薬と食糧を分けてもらい、西軍が天守閣への砲撃を
始める一方、若松の北方で残る長岡藩兵と共闘して、
敵の弾薬を奪うなど、徹底抗戦を続けた。
しばらくすると、旧幕府軍の衝鋒隊の古屋佐久衛門に久々に
会った。現状をいかに打開するか話し合い、応援の軍勢千人
をもって作戦を立てるが、肝心の武器弾薬も食糧も
無くなっていた。
会津藩に協力を要請するも余裕なしと断られ、大鳥達は
抗戦不能とあきらめ、険しい山道を抜けて福島に移って
行き、その後、榎本武揚率いる幕府艦隊が仙台に寄港
していると知って、仙台に向かった。
また、転戦しながらも生きながらえた池田伝七郎も
彼らと行動を共にした。

・・・・

会津領内に侵攻した薩摩土佐の火力は強く、
城下への攻撃は熾烈を極めた。
母成峠が破られて怒涛の西軍進撃に、猪苗代にいた土方の
部隊は若松城に駆けつけて、容保の護衛に当たった。
事態打開を図るべく佐川官兵衛総督の下、会津藩兵は
槍を持って突撃して敵塁数ヶ所を奪ったが、百七十名もの
死者を出し、参戦していた長岡藩大隊長の山本帯刀も
包囲され戦死した。

九月、城の北西、越後口の高目村(福島県耶麻郡西会津町)
に布陣していた会津方最精鋭部隊の朱雀四番士中隊付属隊に、
塚越富五郎、佐藤銀十郎、佐藤福松の三人は一兵として参加
していたが、北上してきた数十人の西軍部隊と激しい銃撃戦
となり、富五郎は胸を撃たれて絶命した。銀十郎や福松と
同じく二十代前半の若者だった。また、富五郎の妻は
中島三左衛門の娘さいであり、この悲報は間もなく
夫人一行にも伝えられた。

更に、朱雀四番士中隊誠志隊の銀十郎達は、迫る長州、
芸州、松代の西軍勢と交戦(喜多方市熊倉)、村での
撃ち合いなど初めは優位にあったが、退いた西軍を
深追いして逆に側面を衝かれ、銀十郎ら十五名が
撃たれて戦死した。享年二十一。
やがて、会津と西軍による若松城攻防戦になり、
十五日には不利を悟った仙台と福島藩も降伏した。



by huttonde | 2014-12-08 04:59 | 漫画ねた | Comments(0)
時代劇 4
空っ風がしつこい二月、干上がった田畑やあぜ道からは
嫌がらせのように砂埃が舞い上がり、歩くことを邪魔
するが如く横風が吹きつけている。
博徒三人は次郎太に追いつくと、博徒1は、
「おい、次郎太、おめえ賭場やめたんだってな。
当てはあんのかよ」
次郎太にも顔馴染みの客三人だったが、初めて声を
かけられたことに違和感があった。客は小僧を同格には
見ておらず、あくまでも格下である。声をかけるのは
馬鹿にしたり、八つ当たりが定番だった。賭場より
離れた田んぼの一本道にまで走り来て、今になって
気安く声をかけるのは不自然に決まっている。
銭を狙って来たのは明白である。
「次郎太、おめえ江戸に行くんだろ? どうせ向こう
行きゃあいい仕事も見つかるだろ、今持ってんの、
置いてけよ」
「・・・・」
「こっちは何とでもしてやれんだぜ、な。
持ってるもん全部出せよ。死にたくねえだろ」
三人がゆっくりと抜刀して、じりじりと次郎太に
迫って来る。次郎太は後ろへ下がりつつ、
「勘弁してください、銭がなきゃ俺も困るんで」
「うるせえ、全部出せや、死にてえのか」
博徒1の怒声が飛ぶ。
次郎太はしゃがみ込み、手を着いて、
「俺ぁ死にたくねえです、勘弁してくだせぇよ」
ヘコヘコと懇願するが、
「死にたくなけりゃ銭出せって言ってんだろが、ほれ」
博徒1が次郎太に近寄り、脇差の刃を次郎太に近づけた。
と、次郎太はいきなり砂を博徒の顔に投げつけ、
博徒1が顔を背けた途端に、腰の脇差を抜き、
飛び掛るように博徒1の小手から首をなぞって背後に
回った。刃の衝撃は博徒1の首にかかり、
鮮血を噴き出して横に崩れ落ちた。
これを見た博徒2は夢中で上段から振りかかるが、
小柄な次郎太はその下へ潜るような勢いで突っ込み、
小手を下から斬り上げた。思わず博徒2の手が緩んで
刀が落ちかかると、次郎太の脇差が叩き落すように
斜めに振り下ろされ、刃は深く博徒2の首を切り裂いた。
博徒2は前のめりに膝を着き、その場に倒れた。
残る博徒3も予想外の展開に慌てて斬りかかるが、
次郎太の突き上げるような脇差は、相手の左手首に
直撃し、これもまたまもなく倒れ込んだ。
「銭より命だんべが」
血糊の付いた脇差を浪人の袖で拭い、顔に付いた血を
腰の手ぬぐいでふき取ると、
「罰としていくらかちょうだい」
と、博徒達の袂や懐を漁り、
小銭を手にするとその場を離れた。

・・・・

前橋から大前田英五郎の自宅がある大胡まで距離はあるが、
朝から行けば昼前には十分である。
一回挨拶で顔を見せただけであり、忘れているかもしれず、
用事で不在もあり得たが、せっかくの機会だからと向かった。
身内はもはや無いも同然であり、以前世話になった文之助
親分が、次郎太が賭場を出て二年後に亡くなったと知り、
頼るべきは英五郎親分と思ってのことだった。
「次郎太? ああ、いたっけな、片目の小僧だったな」
幸いに英五郎は自宅にいて、次郎太のことも
覚えていたらしい。
居間へ通された次郎太と約八年ぶりの顔合わせとなった。
「その顔なら見れば思い出すわな」
英五郎、このとき齢七十を過ぎていかにも隠居然とした
風体だったが、やはり歳に似合わぬ巨体はそのままに、
昔同様に快活に笑い、
「あれから江戸へ行ったそうだな、どうしてた、
元気にしてたかい」
何の衒(てら)いも無く気安く語りかけた。
「へぃ、江戸に向かいまして、しばらく路頭に迷うところ
を、ひょんなことから偉い御武家の方に拾われまして・・・・」
「偉い御武家?」
「幕府の偉い方だそうで、何やら色々と役職を持って
幕府を仕切っておられた様子で」
「ほう、役職か。どんなもんだ?」
「勘定奉行を何度も、それから、外国奉行、南町奉行、
歩兵奉行、陸軍奉行並、軍艦奉行、海軍奉行並・・・・
えー・・・・他幾つも」
「そりゃあすげえな。で、その御方の名前は?」
「小栗上野介忠順」
「小栗・・・・ああ、聞いた覚えがあるな。幕府の台所を
取り仕切ってた御方だな。うん、それは知ってる。
その御方の家来にでもなったのかい?」
「へぃ、左様で」
「ほんとか? 賭場の小僧が奉行の家来か。
誰も信じそうもねえなあ」
「いえ、嘘ではねぇです、中間として御屋敷の一角に
間借りしまして、これまで世話になっておりました」
「中間・・・・うん。それがまたどうして今ここに来たんだ?」
「親分は噂を御存知で?」
「噂?」
「埋蔵金です」
「埋蔵金・・・・幕府の埋蔵金か」
「へぃ、その埋蔵金について話がありまして・・・・」
「幕府が隠したって話はあるな。赤城山中とか、だろ?」
「へぃ」
「こんな状況で隠すのは理屈に合わねえなあ。てめえから
幕府返上で、江戸城も明け渡したってえじゃねえか。
しかも将軍までが降参と聞いてる。勝負は決まったわけだ。
この期に及んで大金隠すなんざ、刀捨てて石つかんで喧嘩
するようなもんだろ・・・・おめえは何か知ってるのかい?
見たのか?」
「いえ・・・・ただ、殿が御役御免となって、上州へ移住される
際に手伝いましたので、千両箱は沢山見ております」
「たしかに勘定奉行といえば、べらぼうな額を扱う役職
だろうが、その小栗さんは、また幕府を起こそうとでも
いうのかね」
「いえ、殿は、殺されました」
「殺された?」
「西軍に難癖をつけられて、無実でありながら問答無用で
家臣三人と共に首を斬られ、翌日には嫡男又一様も家臣
三人と高崎城内で首を斬られました」
「そうか・・・・それはひでぇな。で、残された者達は?」
「御夫人方は事前に会津へ避難されました」
「ふーん・・・・官軍としては幕府を代表する者として
見せしめか。で、おめえはどうしたんだ?
なんでここへ来たんだ」
「へぇ、手前も御夫人方に付き添っていましたが、
路銀にも困る有様で、なんとかしようと途中で抜けて
来まして・・・・で、その埋蔵金についてですが、
おそらく西軍が・・・・」
「・・・・西軍が奪ったと?」
「おそらく・・・・」
英五郎は覗き込むように次郎太に、
「おめえ、見たのか?」
「いえ・・・・」
次郎太はうつむいた。
「信じてるのか?」
「へぇ・・・・」
「・・・・それを取り返したいってか?」
「・・・・へぃ」
「それでここに?」
「・・・・」
次郎太がうなづいた。
「・・・・幕府は無くなって、西軍が官軍になった。この前橋
でも高崎でも、主だった藩はみんな寝返ったらしいぞ。
俺ら博徒連中が官軍に逆らったら、それこそ袋叩きだ」
「へぇ、ただ、殿が上州へ移ったときに、それを知った
一部の博徒が各地の村人と一緒に、刀や鉄砲まで持ち出して、
殿から金を巻き上げようと大勢で押し寄せたことがあり
まして、そのときは家来一同が同じく武装してましたんで
撃退することができまして・・・・」
「ほう、博徒どもはどれくらいいたんだい?」
「およそ二千人と」
「うん、で、家来ってのはどのくらいいたんだい?」
「地元の者を含めて百人程・・・・」
「それでも撃退できたと」
「へぇ」
「じゃあ、今上州に来ている西軍連中は、当然軍勢で
桁も多いから、俺らが集まったところで勝ち目はねえな」
「集まりませんか」
「準備があれば数日で千や二千はいけるが、博徒が槍や
鉄砲持ち出して暴れたところで、どうにもなるめえ」
「北関東では一揆が随分と暴れたようですが」
「西軍が来る前だろ、おめえの殿を襲ったのも、おそらく
その一味だ。野州から来たらしいな。だいたい今の上州で
一揆てのも腑に落ちねえ」
「親分さん方はどうされていたんで」
「俺らか・・・・どうしたと思う」
「・・・・連中に加わったか、銭渡して通り過ぎてもらった
・・・・とか」
「わかってたのか? そうだよ、殺し合いなんぞしたら
俺らぁすぐに人手不足だ。後の商売にも差し障る。
到底太刀打ちできねえ。で、まとまった銭渡して事なきを
得たってわけよ・・・・がっかりしたか」
「いえ、でも、なんだか呆気ないなと」
「その一揆の前にも同じことがあってな。
天狗党って奴らだ」
「天狗党・・・・」
「尊皇攘夷を掲げた水戸藩の連中が、千人はいたか、
中山道を通って西へ行くってんだよ。そうなると、
前橋は通り道だ。急ぐにはもっと南を通ればいいんだが、
連中は行く先々で御用金を強請(ねだ)った。軍資金だな。
案の定何里もあるこっちにまでちょっかい出して
来やがってな、こっちは前橋藩やら幕府の下で商売している。
逆らったら食えなくなるどころじゃねえ、遠島、牢獄は無論、
首さえ危うい。幕府に逆らう天狗党に与するわけには
いかねえ。とはいえ、天狗党と争うにはこれまた分が悪い。
なんたって血の気の多い連中らしくてな、野州(下野)
じゃ商人脅して軍資金にしようとしたらしいんだが、
その額がでかすぎて払えねえと商人達が断ったら、
町を放火されたそうでな。天下国家をこいてる割には、
やってることは山賊や盗賊だよ」
「・・・・」
「で、やり合うとなれば、どれほどひどいことになるか
わからねえ。それでなんとか穏便に素通りしてもらおうって
わけでな、随分な額を差し出したんだよ。おかげで互いに
死人も怪我人もねえ」
「・・・・で、天狗党は、その後は?」
「ああ、京都へ向かったらしいんだが、越前辺りで大方
捕まって、首ぃ刎ねられたらしいな」
「・・・・聞いたところ、信州から来た西軍は館林に行った
そうで、しばらく北関東に残っている幕府方の者を
やっつけちまおうってことらしく・・・・」
「幕府に逆らう者、同調する者、どっちもいるのが
現実だいな。俺らとて一家がでかくなったのは
幕府のおかげともいえる。助太刀したいのは山々だが、
相手が軍勢ではなあ」
英五郎は煙管に火をつけ、渋い顔で煙を吐き出した。
「・・・・」
うつむいたまま考えあぐねている様子の次郎太に
英五郎は、
「おめえは殿の家来というからには、この辺に残っている
幕府連中には話はつけてるのかい?」
「いえ、特に知り合いがいるわけでもなく、
どうなっているやら細かくは分からねえままでして」
「・・・・幕府連中の一部は、西軍に逆らって関東に
散らばった。東北に向かった者もいるらしい。
中には最新の武器を持った軍勢もいて、西軍とも戦う
つもりで野州に向かってるらしいな。たぶん会津へ合流
するのかな・・・・連中も銭は欲しいだろう。
天狗党の二の舞ではジリ貧だ。知らせてやったらどうだい」
「・・・・では、行ってみます」
次郎太が玄関に出ると、英五郎がやってきて、
「なあ、次郎太よ、幕府の残党はおそらくもたねえぞ。
それでもいいのか?」
「もたねえと思った者は降参して、
そうでない者は逆らうと思います」
「そりゃそうだが、勝負は見えてるでなあ、
博打とすれば手は出さねえのが無難だ」
「・・・・」
「おめえにも言ったことがあるんじゃねえかな。
博打はするもんじゃねえ、させるもんだと」
「へぃ、よく覚えております」
「損は覚悟ってか?」
「博打は残党にやってもらいます。勝っても負けても
やる意味がありまして・・・・」
「負けてもやる意味があるってか」
「・・・・機会あれば後々お知らせします」
次郎太が礼をして出て行こうとすると、英五郎は、
「ああ、ちょっと待ちない」
と、袂から一包み取り出して、次郎太に手渡した。
「五十両ある。大金とは言えねえが、小銭でもねえだろ。
御一行のために使ってくれ・・・・ま、残党に賭けるのも
勝手だがな」
笑顔で答えた。
(親分、随分大金ですよ・・・・)
と思うものの、次郎太もまた笑顔で、
「遠慮なく頂戴致します」
受け取って一礼した。

・・・・

(最新の武器を持った幕府残党・・・・軍勢が野州に・・・・?)
幕府方で最新の武器といえば、フランス陸軍の訓練を受けた
幕府陸軍の一部隊であり、小栗が意欲的に進めた伝習隊の
ことだろう。横浜近郊で騎兵、砲兵、歩兵と三種に分けて
三兵伝習所として開設され、幕府の旗本子弟から駕籠かきや
職人のような町人や博徒などまで参加し、幕府陸軍の
精鋭部隊を目指して組織された。小栗の家来も短期間では
あるが歩兵として訓練を受けていた。権田村を襲った二千に
及ぶ暴徒達を百人余りで撃退できたのは、地元民の献身は
無論だが、最新の武装と、訓練を基礎とした家来一同の
整然とした統率と勇敢な行動、正確な射撃による。

江戸開城の日に、幕府軍やら何やらが多数抜け出し、
江戸を離れたという。個人個人が降参するのを嫌がって
勝手気ままに、ではなく、多くは組織として動いたに
違いない。
幕府陸軍なのか、その一部か、新撰組か、他の何かか。
(・・・・陸軍部隊が大挙して脱走したんなら、
指揮を執ったのは大鳥先生かな)

訓練時、教官にはフランス陸軍士官のシャノアン
(シャノワーヌ)ら十五人と、日本側の指揮官には
歩兵奉行の大鳥圭介もいた。
大鳥は天保四年(1833)、播州(兵庫県)赤穂に生まれた。
大村益次郎と同じく親が医者で、共に大坂の緒方洪庵の適塾で
蘭学と西洋医学を学ぶが、好奇心と勉学意欲は旺盛で、仲間と
共に江戸に出て薩摩藩と関わって蘭学関連の翻訳を手伝い、
坪井塾に入って塾頭になり、その後は西洋式兵学を学び、
縄武館(江川塾)に招かれて兵学教授として務める一方で
中浜万次郎から英語を学んだ。
その後、尼崎藩、徳島藩と出仕した後、幕府直轄の洋学研究所
である蕃書調所(ばんしょしらべしょ)に進み、翻訳や研究を
続けて開成所教授も兼務し、更に講武所が陸軍に編入されて
軍事研究機関となる陸軍所に出仕、数学、英語、フランス語
などを習得しつつ、独自開発した活字を使って翻訳した海外の
軍事関連書を複数出版した。
日本初の金属活字であり、大鳥活字と呼ばれた。
大鳥は歩兵頭並として幕府陸軍の育成する役目を担うと、
二年前の三十三歳で、小栗の推薦により歩兵頭(陸軍士官)
に昇格して幕府直参となり、江戸開城前には歩兵奉行と
なって伝習隊を組織して、招聘されていたフランス陸軍
士官達と指導に当たった。

当時としても五尺(145cm)程の小柄な大鳥は、
泰然自若として明朗、若い頃より「全身これ肝」とも
呼ばれ、意欲の塊のような人物だった。
大鳥は神田の小栗邸にも数回来訪し、小栗と欧米の情勢や
幕府の今後についても熱く語っていた仲である。
小栗の家来達は、一兵として訓練を受ける前に大鳥に挨拶を
している。大鳥からすれば小栗の家来は、同じ主戦派の尖兵
となるべき者達であり、大鳥も満面の笑みをもって家来達に
応えていた。
その関わりから見て、大鳥が小栗と同じく薩長に反感を持つ
主戦派だろうと次郎太は推測した。
(そういえば・・・・)
と次郎太は、まだ江戸を離れる直前に、小栗が彰義隊の
隊長に推薦されたのを断ったと家臣に話しているのを
聞いているし、同時期に会津からの使者が何やら熱心に
話しているのも聞いている。他にも複数の部隊が各地に
散って抵抗を続けるらしく、小栗が複数から誘われて
いたのは間違いない。
(彰義隊か?)
伝習隊同様に彰義隊なる組織が江戸城から離れて西軍に
対抗していることは聞いていたが、詳細は知らない。

もたもたしていたら、西軍は北関東で幕府残党を壊滅
させるかもしれない、あるいは江戸城へ向かってしまったら、
もはや手出しは出来ない。野州へ来る幕府側もまだ南なのか、
既に到着して更に移動を始めるのか、まったく手探り状態
である。
次郎太は西軍の状況を確認すべく急ぎ館林を目指し、
その後はすぐ北にある野州の西南、高橋村と大沼田村
(佐野市)に行くことにした。そこは小栗が持つ一番
大きな知行地であり、四百石程度の権田村に対し、
高橋村と大沼田村は合わせて一千石を超えていた。
なぜ小栗がそちらに移住を決めなかったのかは不明である。

幕府は無く、主の小栗もこの世にいない。小栗の知行地は
既に朝廷の天領、即ち薩長側に組み込まれている。
小栗の家来である次郎太に、村の者達が好意的であるかは
不明だが、西軍に一泡吹かせ、残り抵抗する幕府方に加勢
したい、幕府方が頑強に抵抗出来るなら、そこを一時的にせよ
根城に利用も出来るのではないかなど、次郎太は無い知恵を
絞って考えを巡らせ、足を速めた。



by huttonde | 2014-10-08 06:00 | 漫画ねた | Comments(0)
時代劇 3
※大雑把な話・流れ

「あの藤七って親父は油断なんねえ。
二人はたぶん知らねえと思うんで・・・・」
思わせぶりな口ぶりに三左衛門は訝って、
「おめえは何か知ってんのか」
「殿が殺されるしばらく前に、
あいつは殿から金借りてんです」
「藤七が? ふむ、で、幾らか知ってんのか」
「二百両と聞きました」
「二百両!?」
「それも二度、です」
「二度? なぜだ・・・・殿の御屋敷については事前に
受け取っているし、用水路は・・・・御家来が率先して
工事に取り掛かっていたはずだぞ」
「事情は俺も知りませんが、立て続けに大金を無心するのは
怪しいと思いまして、これを機会にちょいと確かめたいと
思いまして・・・・」
「うむ・・・・それはそれとして、もうすぐ二人も戻って来る
だろうし、こっちゃ金の工面が上手くいけば
文句はねえからなあ」
「二人の性格は俺も知ってます。二人じゃたぶん
藤七の親父には通じません」
「どういうこったい」
「ですから、俺が確実にまとまった銭を
持ってこようと思いますで」
「おいおい、二人に頼んだのは俺だぜ、
俺が決めたことは間違いだってのかい?」
「頭に落ち度はありゃあせん。
二人は真面目で気のいい奴です。
だが、事情を知らねえし、それじゃ足りねえ」
「なんでぃ、おめえなら出来るってか」
「二人がなんとか笑顔で大金を持ってきたらよし、
小銭なら失敗てことで、失敗になってもかまわんように、
俺も行かせて下さい」
銀十郎は一行と共に、次郎太の言を静かに聴いていたが、
「おい次郎太、おめえまさか逃げるんじゃねえよな?」
「なに?」
「藤七が怪しいのはみんな知ってるこった。俺からしたら、
おめえも油断ならねえ。いつも腹に一物って感じだ。
何たくらんでんだ?」
「たくらんでねえよ、今言った通りだ。二人より多めに
持って来てやるってんだ。心配ならおめえも来るか」
「ふん、断るね。俺は逃げねえよ」
「わからねえ野郎だな」
次郎太は再び三左衛門に、
「俺も道には詳しくねえんで、
半月程かかるかもしれませんが、
必ず戻りますんで、先に行って下さいまし」
「おい、おめえまさか・・・・妙なこと考えてねえか?」
三左衛門は訝しげに、
「やめとけよ、余計なことすりゃやっぱり小栗達は、
なんてことになりかねねえぞ」
と強く諌めたが、次郎太は一行から離れると振り返って、
「土産持って来ますんで」
次郎太は軽い会釈をすると来た道を戻って行った。

・・・・

薩長を主軸とする東征軍、官軍は、奥羽鎮撫総督として、
左大臣九条道孝、副総督三位沢為量(さわためかず)、
参謀少将醍醐忠敬、下参謀として薩摩藩士の大山格之助、
長州藩士の世良修蔵が五百名程の兵と共に海路で仙台へ
上陸した。
あくまでも戦を避けたい仙台藩と米沢藩は、閏四月十二日、
会津藩征伐のために仙台に着陣した東征軍に、仙台や
米沢藩など大名が連名する会津藩の救済嘆願を再三届けるが、
妥協を考える九条ら公卿をも脅す勢いで、世良修蔵は強硬に
武力討伐を主張し、願いは却下された。その上、会津討伐を
開始するよう仙台、米沢、秋田、南部ら各藩に強く催促した。
これは京にいた大久保一蔵(利通)や桂小五郎(木戸孝允
きど たかよし)の命令でもあった。
漁師だった世良は高杉晋作の奇兵隊に加わり、その後は
桂の腹心となって長州軍の一角を担うまでになっていた。

会津藩は京都守護職として京の都で新撰組を組織し、
散々に長州藩士や関係者を取締った過去がある。
薩摩の大久保も強硬だったが、桂の会津への憎悪もまた
徹底していた。
「慶喜が無理なら容保の首だ、城も領地も召し上げる」
と散々主張していた。
「降伏するなら首を差し出せ」
と、世良もまた桂と同じく会津抹殺を望んでいた。

仙台・米沢共に、西軍傘下として会津を攻撃するか、
会津側に付いて西軍を撃退するか、藩論は分かれ、
苦渋の決断を迫られた。
一方、謝罪も恭順も拒否され、降伏の条件として
容保の首と城と全領地を要求された会津藩の家老達
上層部は、なす術も無く迷っていた。
慶喜の恭順が認められて後、西軍の憎しみは会津に
向けられている。要求通りにするか、戦って事態打開を
図るか二つに一つだった。

これに一策を講じたのが会津藩筆頭家老の梶原平馬だった。
天保十三年(1842)、内藤介右衛門信順の次男として
会津若松に生まれ、家中の梶原家に養嗣子となり、
祖先から伝襲の平馬景武(かげたけ)を名乗った。
年は三十にもならない若者だが、剛毅と知性を
兼ね備えた武士である。
会津を囲む東北諸藩は敵となる理由はない。また、
越後とも物流で深い関わりがあり、会津藩の飛び地もある。
その隣には長岡藩もあって良好な関係を築いていた。
このまま戦となれば、物資運搬は陸だけでなく海も
必要になる。
海への玄関を確保するためにも日本海側、特に隣の
越後諸藩とも連携する必要を感じた平馬は、
長岡藩の河井継之助(つぎのすけ)にも協力を求めた。
河井は若くして藩財政立て直しに励んで大赤字から黒字に
転換させた実績があり、藩主牧野忠訓(ただくに)の
信頼を得て家老となって、財政面から軍事まで一手に
引き受けて藩の建て直しと強化に努めていた。
河井も無責任な慶喜と幕府に憤慨し、
「卑怯な奴らばかりで情けない限りだが、
うち(長岡)まで同じと思ってくれるなよ」
と、追い詰められた会津に理解を示した。

軍備増強真っ最中だった河井は江戸藩邸の高価な什器や
書画骨董などを悉く数万両の金に換えると、平馬を連れて
横浜の武器商人シュネル(スネル)兄弟から、最新の
元込め銃数百挺とガトリング砲二門を買い込んだ。
当時日本には三門しかなかったが二門が河井の手に移った。
平馬もまた藩から金を集めてライフル銃七百八十挺と
約二万ドル分の弾薬を買い込み、共に外国船を使って
新潟港へ運んだ。

シュネル(スネル)兄弟の兄ヘンリーは万延元年(1860)
に日本と通商条約を結んだプロシアの総領事書記官、
弟エドワルドはスイス総領事書記官だったが、
元治元年(1864)、横浜でフランソワ・ペルゴと共に
スイス時計の輸入商社シュネル&ペルゴを設立する。
しかし、武器販売を優先しようとしたことからペルゴと
対立して商会は解散し、独自に武器商人として動いていた。
平馬と河井は彼らの存在を惜しんで、
新潟を拠点にすることを勧めた。
「江戸はもはや西軍の庭に過ぎない、
その立場を活かして会津や越後に協力して欲しい」
と熱心に頼み込んだ。
兄弟にしても、西軍優勢の情勢は分かっていたが、
東北越後諸藩が一丸となれば戦局はどう変わるか
分からない。西軍のごり押しに追い詰められた会津方の
助けとなって形勢逆転ともなれば、今後のプロイセンとの
関係強化につながり、両国のためにもなる。

慶応三年(1867)には、エドワルドは新潟港を拠点に
エドワルド・シュネル商会を設立し、
長岡藩や会津藩など東北諸藩への武器提供した。
それを機に兄ヘンリーは平馬の紹介で、会津藩主・
松平容保の要請を受けて軍事顧問を務め、容保より
平松武兵衛の名を与えられて屋敷も提供され、
日本人女性を妻とした。
更に米沢藩の軍事顧問も兼務した。
今や不利な状況になりつつある旧幕府側、その要の会津と
周辺諸藩へのヘンリーの協力に不審に思った西郷頼母ら
藩の者達が理由を尋ねると、
「トクガワ(会津)には責任とプライドがあります。
軽薄なサッチョーは信用できません。トクガワのため、
日本のために協力します」
と笑顔で答えた。

ヘンリーがプロシア人なのか、オランダ人なのかは
不明であった。
出身国を偽るのは当時よくあったようで、良かれ悪しかれ
しがらみから逃れる手段として使われたらしい。ともかく、
薩長に与する英国とは利害対立もあり、一線を画す立場
なのだろうと推測もあって、外国人のヘンリーには、
無責任な武器商人として不信感を持つ藩士もいたが、
その真摯な献身ぶりに、次第に同志としての信頼を
得るようになり、
「(容保)殿が厚遇するのも合点が行った。
西洋にも武士のような者がいるんだな」
と、徳川方一藩士とまで認識されるに至った。

東征軍が仙台へ上陸すると、大山格之助は、港の商船と
その積荷を没収し、酒や陶器などを部下に分け与えた他、
それらを周辺の商人などに強引に買い取らせ、
数千両を儲けた。
また、世良は官軍参謀として自身を誇り、東北全体を下に
見る傲慢さがあるだけでなく、あくまでも会津、出来れば
徳川に親しい東北諸藩全てを武力で叩き潰したいとの
執念があった。
その傲慢や憎悪は軍の風紀にも表れ、仙台城下では
西軍将兵による婦女暴行など狼藉が頻発していた。

そのため仙台藩では「世良を斬るべし」との声強く、
何の恨みも無い会津に加勢すべしとの意見に傾き始めた。
その後、世良が大山に送った密書が、使いに動いた
福島藩士・鈴木六太郎によって
「奥羽皆敵と見て逆撃の大策に至度候に付」
という内容であることを仙台藩に報告した。
世良、あるいは薩長からすれば、東北など化外の地であり、
逆らうなら総て武力で討ち滅ぼせばいいというわけである。
これに激怒した藩士の瀬上主膳、姉歯武之進は、奉行の
許可を得ると、世良に天誅を食らわせんと計画を立て、
閏四月二十日(六月十日)未明、瀬上主膳、姉歯武之進、
鈴木六太郎、目明かしの浅草屋宇一郎ら十数人で、
福島城下の旅籠金沢屋に滞在していた世良を襲撃した。
慌てた世良は二階から飛び降り重傷を負うが、
構わず捕縛されて同日、阿武隈川河原で斬首された。
世良暗殺の報は東北諸藩重臣の集う白石城での
会議の場にも届いて、
「悪逆非道の不逞藩士に天誅が下った、
真にもって愉快痛快」
と、万歳を唱えて喜んだ。

阿部氏十万石の白河藩は西軍傘下となり、白河城は仙台、
二本松、棚倉の各藩が守備についていたが、重要拠点である
白河城を、宇都宮にある西軍本隊が来る前に確保して
おくべきとの仙台藩の助言を受けて、会津藩は閏四月
二十日、世良死亡の報で、同日の内に城を奪い返した
(白河口の戦い)。
このとき、守備側の仙台、二本松などは戦わずに城を放棄、
撤退した。官軍に逆らうわけにもいかず、さりとて従うには
承服できない憤懣やるかたない仙台藩と、
それを知る各藩の、会津への共感と誠意だった。
それは奥羽列藩同盟として結実した。

その後、北陸道軍が会津征討のため越後長岡に近い
小千谷(おぢや)(現・小千谷市)に迫ると長岡藩では、
世襲家老の首座・稲垣平助、先法家・槙(真木)内蔵介、
以下上級家臣の安田鉚蔵、九里磯太夫、武作之丞、
小島久馬衛門、花輪彦左衛門、毛利磯右衛門などが
非戦恭順を主張した。
河井は西軍の横暴に屈するのは潔しとせず、彼らの拠点と
なっていた藩校・崇徳館に腹心の鬼頭六左衛門に小隊を
与えて監視させてその動きを封じつつ、米国のモンロー
主義に影響を受けたとされる獨立特行論を主張した。
恭順で済ませることなく独自性を発揮し、洋式軍隊を
編成して強力な武力を背景にして、西軍と東北諸藩との
平和的解決を進め、ダメなら越後より西軍を駆逐してやる、
という思いで西軍との談判を申し出た。

五月二日、河井は小千谷の西軍本陣に乗り込み、近隣の
慈眼寺(じげんじ)で会談となった。河井の相手は
西軍幹部の黒田や山県ではなく、土佐藩士の岩村精一郎
(高俊)、長州藩士の杉山荘一と白井小助、薩摩藩士の
淵辺直右衛門(ふちのべ なおえもん)という、いずれも
二十を越えた程度の若者だった。
(見くびられたか・・・・)
河井は西軍が長岡藩を、北の一弱小藩と見ていることを
察したが、あくまでも丁重に奥羽への侵攻停止を訴えた。
「願わくば今しばらく時間をお与え頂きたい、
必ず会桑二藩を説得して御覧に入れます」
しかし岩村は最初から居丈高で、
河井を理解する気は無かった。
西軍側代表として臨んでいる岩村は、代表という自負と、
交渉で侮られてはまずいという警戒が先に立った。
「そんな都合のいい誘いには乗らん。長岡も降伏恭順して、
会津藩討伐の先鋒にならなければ認めん」
口調も強く、あくまでも要求するのみである。
「わざわざ戦などせずとも、会津は官軍に盾突く理由など
ござらぬ、先年の京都守護職での七年に及ぶ忠勤ぶりで
明らか」
「黙れ、その方が申すこと、
戦備を整えんとする謀略であろう」
と、取り付く島が無い。
(このクソ坊主めが・・・・)
河井は観念し、交渉は僅か四半刻(しはんどき・30分)
で決裂した。
これにより長岡藩は奥羽列藩同盟に加わり、
奥羽越列藩同盟となって、二日後に北越戦争へと
発展した。

・・・・

次郎太は来た道を戻るだけでなく近道を通り、あるいは
遠回りを繰り返して、一時眠った以外は何も食わず、
山中に身を隠すように歩き続けた。権田村に戻ったのは
二日程後、夕刻迫るときだった。
東善寺に着くと住職が出迎えた。
「おお、次郎太さんも無事だったか、何よりだ・・・・しかし、
おまえさんも御夫人の一行に従ったのではないかね」
「へぇ、銭が足りねえってんで、途中で戻って参りました」

次郎太の安堵の顔は汗と埃で汚れ、雑草による
無数の傷を手足に負い、着物も臭いを漂わせていた。
住職は次郎太を見て、
「おまえさんも随分無理して来なさったな。
何か食ったかね。有り合わせでよければ支度しよう。
上がりなされ」
「へぃ、ありがとうござんす、まずは水を頂戴したく・・・・」
台所に案内された次郎太は、甕(かめ)の水を柄杓で
何杯も飲むと、ようやく一息ついた。
台所から続く板敷きの囲炉裏の座敷に腰掛けてわらじを
脱ぎ、勧められた桶の水で手足を洗い、部屋に上がって
隅に正座した。
住職が台所で飯を盛っている中、次郎太はようやく村へ
着いた安堵感と、久々の東善寺に気を許したのか、
辺りをぼんやり眺めた。
やがて住職が飯の椀と漬物の小皿を乗せた膳を運んで来て、
「こないだは房太郎さんと兼吉さんが来ておったが、
二人も同じ調子だったよ」
次郎太は合掌して飯をかき込んだ。
「困っておるようだったので幾らか渡したが、
集まらなんだかの」
「へぇ、それが、二人がまだ戻って来ないうちに、
じれったくなって俺も来てしまいまして」
「そうか・・・・村々へ廻って会津に発ったはずだが、
行き違いかもしれんな」
住職は茶を膳に差し出して、
「事情はもう存じておるな? 殿にはまったく気の毒な
ことになってしまったが・・・・」
次郎太は飯を食い終わると、茶を椀に入れてすすり、
「西軍の連中はどうなりましたか?」
「うむ、殿と御家来方が処刑されると、後を高崎藩の
御役人に任せて移動したようだな。東毛(群馬南東部)を
進んで旧幕府の残党を取り締まりながら江戸へ
向かうらしい・・・・で、河原には行ったかね?」
「いえ、まだ・・・・」
「殿と御家来の御首はしばらく土手に晒されたが、
殿と又一様だけは、先に向かっている総督の元へ持って
行ってしまわれた。どこへどうするのか分からぬ」
「では、御家来の御遺体は?」
「少し離れたところに埋めて弔った。時期が時期だで、
大っぴらには出来んがな。おまえさんも会ってくれるかね」
「へぃ」
寺の裏にはひっそりと、殺された家臣六名の土盛りされた
墓が並んでいた。次郎太にも顔馴染みの者ばかりである。
まだ皆若く、これから小栗の下、村や国のために重責を
担って活躍するはずだった者が六名も失われた。
更に、その傍らには首の無い小栗と息子又一の墓があった。
家臣達はとりあえず首をつなげて埋めてあるが、
小栗と又一の首は西軍の手にある。
次郎太は膝を着き、しばらく黙ったまま目の前に並ぶ新しい
土盛りを見ていたが、合掌を済ませると立ち上がって
寺に戻った。
「和尚様、手前これにて失礼の程を願いたく」
「これからどうする? 村の者もなかなか協力は難しかろう」
「他に当てもありますんで、なんとかします。
機会ありましたら、また改めて御礼に伺いますので、
そのときまで和尚様もお達者で」
「そうか。では、御夫人方によろしくな」
次郎太は深々と頭を下げると寺を出て行った。

日が暮れて辺りはだいぶ暗くなり始めていた。
次郎太は小栗の処刑場所の河原へ向かった。
そこでは数人の村人が立ち話をしている。
主従が斬られたらしい辺りまで行くと、血の痕が
そこかしこに残っている。
小栗主従の首が晒された跡の土手には、生々しく
八本の竹が雑に刺さっていた。
既に西軍も各藩の姿も無く、その場に集まっている数人の
村人は、ある者は合掌し、花を手向ける女性もいる。
「むごいもんだな」
老いた村人がぼっそと言った。
「西軍が強いんじゃしょうがねえさ、幕府が無くなって
西軍が代わりになるらしいからな」
「こんな無法がまかり通るんじゃ、
どんなことになるやらな」
ささやき合うような村人の会話を横に、次郎太は無言で
晒し首の跡を見ていたが、踵を返して来た道を戻って
行った。着いたところは佐藤藤七の家だった。

佐藤藤七は藤岡市本動堂(もとゆるぎどう)の出身で、
小栗の父忠高に認められて、権田の名主佐藤家に
婿入りした。
小栗家が忠順に代わってからも名主として信任され、
名を勘兵衛から先代の藤七を名乗った。
安政七年(1860)(三月以降万延元)一月二十二日、
遣米使節で目付役の小栗の従者として随行した藤七は、
五十四歳にして始めて海外を経験し、地球を一周して
九月二十七日に帰国した。
この体験をもとに書いた通称「渡海日記」と
「諸用留(とどめ)」があり、渡米の際して様々な情報、
知識を細かく書き残している。
几帳面な藤七は商才もあるらしく、小栗の庇護の下、
手広く商売も行い、手堅く稼ぐ抜け目無さがあった。
このため村の収益にも貢献していた。

家で出迎えたのは藤七。
「次郎太、おめえ会津へ行ったんじゃねえのか」
玄関に現れた次郎太に、藤七は驚いた顔を見せた。
次郎太が静かに、
「房太郎と兼吉は?」
と尋ねると藤七は、
「ああ、先日来とったな。路銀が足りねえってんで、
村を廻ってると言っとったが、どうなったか・・・・」
「幾らか渡した?」
「一両ずつは持たせたが・・・・」
「桁が違うんでねえのか?」
「なに!?」
次郎太の咎めるような物言いに、藤七が苛立つのも束の間、
次郎太は脇差を抜くと、土足のまま上がり込んだ。
「あ、こらっ、次郎太」
後ずさりする藤七の眼前に次郎太は脇差を突きつけ、
「おい、殿から借りた金あるだろう、出せ」
と、ぶっきら棒に言った。
「おめえ、何やってんのかわかってんのか、脅すのか」
「殿が殺されるのが分かっていながら引き止めたな。
おめえも斬られてみるか」
以前のように気遣う相手ではないとばかりに、
次郎太は不遜な態度で脇差を突きつける。
藤七が後ろに下がり移った居間には、妻とまだ幼い倅の
勘十郎がいた。
次郎太が二人に目をやると、藤七は慌てて、
「待て、次郎太、おめえは殿の家来だろ、
こんなことやっていいのか、凶状持ちになるつもりか」
「殿はもういねえ。西軍からしたら俺ぁ凶状持ちだろが。
殿とおんなじだ」
尻餅を着く藤七の首元に、なおも脇差を突きつけ、
「おめえが殿から二度大金を借りたのは知ってるよ。
出せ。それとも二人の前で斬られるか」
勘十郎を庇うように抱いていた妻は必死に、
「次郎太さん、やめて下さい、殺生は勘弁して下さい!」
と叫ぶように助けを乞うが、次郎太はそれを
かき消すように、
「出せ! 金返せ!」
と藤七に怒鳴り、脇差を峰(背)に転じて首に押し付けた。
「待て! 待て、わかった、出す、金は出すから、
ちょっと待ってくれ」
藤七は這うようにそこから奥の部屋を移り、押入れを開ける
と、下にある重厚で高級そうな箪笥(たんす)の、
四つのうちの一番下の引き出しを開けた。
そこには、びっしりと小判が四列、隙間無く並んでいた。
「・・・・この野郎、やっぱりそうだったか」
「違う、これは必要があって借りたんだ、
貰ったわけでねえし、これから使うためだ、
月一割の利息を払う約束だった」
「なんに使う」
「用水路、用水路で、村人を只働きには出来ねえ、
まだかかるで、その手間賃だ」
「他は?」
「他・・・・」
「この村に用水路作るんに二百両もいらねえ。ましてや
また二百両借りるわけが無ぇ。隠すとおめえだけじゃ
済まなくなるぞ」
「俺の・・・・本を出すんで協力して頂いた」
「本?」
「おめえが殿のとこへ来る前、殿は米国へ外交に行かれた、
そんとき、俺も着いて行ったんだよ、おめえも聞いたこと
あるだろ、そのときの記録を俺は細かく書いた、それを
江戸のでかい本屋に頼んで世間に広めようと思ったんだよ、
売れれば何倍かにして返せると思ったんだ、うそでねえよ」
「おめえは商売で儲けてるって聞いてたが」
「色々やってるよ、稼ぎが増えれば殿へも付け届けが出来る、
村で困れば融通が利く、村のため、殿のためだ、
悪いことはしておらん」
「で、房太郎と兼吉には渋ったか」
「あ、あれは・・・・」
焦りが高じて言葉が出ない藤七に次郎太は、
「殿がいなけりゃ返さなくていいわけだ、
残った奴らなんぞ知らねえってか」
脇差で首をぐいぐい押される藤七は、
「違う、全部は出せねえ、十両は使っちまった、
江戸の本屋、商人に渡してんだ、往復の飛脚にも使った、
用水路にかかるんで村人にも少し渡した、ほんとだよ」
「殿の家来は全員死んだわけじゃねえ。
いなくなるとは限らねえ。おめえが逃げたら
追ってやるよ。銭を渡すか死ぬか、選べ」
「わかった、渡すから、助けてくれ」
藤七は、次郎太が投げ落とした風呂敷を広げると、
そこへ小判を移した。

次郎太は家を出ると藤七に、
「どうせまだあるんだろうが、
殿や御家来の供養に使ってくれよ。
不義理したら遠慮なく斬ってやるからな」
持ち出した金は約四百両。風呂敷に入れるには重い。
背に担いで歩き出した。

・・・・・

次郎太が次に姿を見せたのは高崎城下だった。
目当ては居酒屋。そこにもしかしたら、あの男がいるの
では、という思いだった。
あの男とは、櫻井衛守(えもり)。小栗が殺される数日前、
櫻井はひょっこりと現れて金を貰っていた。理由は、
「これから会津に行って西軍に備えたい。ついては、
僅かだが仲間も出来て金がかかる、こんなときばかりで
心苦しいが、なんとか路銀を工面願いたい」
櫻井は、江戸の本所に屋敷を構える三百五十石取りの
旗本であり、弓の名手とも知られ、小栗の知人であった。
江戸開城が決まり、西軍が関東に迫っているとの報に、
旧幕府の旗本は、ある者は慶喜に同行し、ある者は江戸を
出て幕府残党として関東各地に散在し、ある者は会津を
目指し、またある者は行方不明となっていた。
櫻井も会津で抗戦を覚悟の身として、小栗に頼み込み、
小栗は餞別として二十両を渡していたが、四日程すると、
またも来ていた。
几帳面で一面厳しい小栗がこれを怪しみ、断るかと
思いきや、藤七同様に、更に五両を渡している。
このやり取りを聞いていた次郎太は、その後小栗に、
「二度も来るのは変な方ですね」
と語ると、小栗は、
「余計なことを申すな・・・・あの者も大変なんだろう。
金金金、ほんに世の中金ばかりよ」
と、つぶやいていた。
とかく直言居士として幕府内で煙たがられ、嫌う者も
多かったと云われている小栗が、意外にもなあなあの
印象を与えるような言動が多いようにも思われた。
丸くなったというべきか。
「殿はクビになったで、気抜けしちまったんかな」
次郎太には合点が行かなかったが、
小栗がその心情をいちいち語るわけもない。
次郎太はゆっくりもしていられないが、放っておくことも
できないという思いで、城下の店を捜した。

次郎太は櫻井に、藤七と同じく胡散臭さを感じていた。
それは、櫻井が小栗のいる寺を出る際、見送りに出た
次郎太に対して、櫻井がやけに偉そうに見えたことに
あった。人によっては威厳がある、自信があると良く
捉えられることではあったが、次郎太は虚勢を張る者が
嫌いである。



by huttonde | 2014-10-08 05:59 | 漫画ねた | Comments(0)
各々諸事情 801
2014年05月03日
黒いペンだけで野生動物を繊細に表現、
圧倒的才能に恵まれた11歳の少年の描く線画世界(セルビア)
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 セルビアに住むドゥーサン・クルトリツァ くんは
現在11歳。アートの才能に恵まれ、力強く圧倒的な
野生動物の絵を描き神童と呼ばれている。

 彼は小学5年生で、セルビアのニュー・ベオグラードの
学校に通っている。初めて絵を描いたのは2歳の時だ。
彼の名を冠した国際的な個展はすでに3回開かれ、そのうち
2回は8歳になる前に行われた。ドゥーサンの作品は様々な
動物達をペンや鉛筆による線画が多く、そのモノクロの
世界には生息種と絶滅種が一緒に登場する。彼はすでに
失われた先史時代の哺乳動物や鳥、昆虫、そして伝説の
騎士まで描き出すのだ。

 ドゥーサンの動物に関する知識は目を見張るものがある。
全ての地質時代に精通しており、各時代にどんな動物が
生息していたのかを把握している。
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 彼の頭の中には65種の有袋類全てが入っており、暗唱も
さらりとやってのける。両親が網羅数最多を誇る動物の
百科事典を買って渡すと、3週間もしないうちに丸ごと
覚えてしまうのだ。

 「動物の事を勉強して動物の本も出すことも考えたけど、
僕は絵にすることにしたんだ。」と語るドゥーサン。
将来の夢は動物学者だという。
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 ドゥーサンが初めて描いたのはクジラみたいな生き物
だったという。それから毎日動物の絵を描くのが日課と
なり、今では週に500枚もの紙を使っている。
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 あまりにも絵を描くことに熱中するドゥーサンの姿に、
この子には何か特別なものがあるんじゃないか?と両親は
児童心理学者の所に彼を連れて行った。専門家は、まるで
ゲームみたいに何でもこなしてしまうドゥーサンに驚き、
彼の絵が高いレベルの心の知能指数を示していることにも
気づいた。

 父親によると、彼は自分の描いた絵を使ってゲームをして
遊ぶという。それは創作の過程の一部なのだ。彼が8歳のとき、
ある教師が「騎士と悪魔と世界」という難しいテーマをわざ
と彼に与えたことがある。幼いドゥーサンはとんでもなく
見事な作品を作り上げ、のちに「僕は画家になりたい。
僕は子供になりたい」と言ったそうだ。
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 ドゥーサンの作品は世界中でじりじりと人気を集めている。
アメリカやオーストラリア、インドなど、いくつかの国々に
招かれたこともある。

 学校でも人気がある。ある日のこと、帰りが遅いドゥーサン
を心配した両親が様子を見に行くと、彼は大勢の子供達に
囲まれていて、ペンを片手に、彼らの腕に彼らのお気に入り
の動物の「タトゥー」を忙しそうに描いていたという。
ドゥーサン直筆の「タトゥー」をつけた子供達はその絵を
消したくない、という理由で体を洗ったり水泳をするのを
嫌がったそうだ。
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 下の動画は彼が絵を描いているところを撮影したものだ。
細かい線を繊細に書き入れるという画風で素晴らしい
動物の絵を描き上げていく。
Dusan Krtolica 11 years, Crtanje Zivotinja, Drawing Animals

 こちらは10歳の時の映像だが、
何も見ないで完璧な鳥の絵を描き上げている。
Dusan Krtolica 10 years, Crtanje Zivotinja, Drawing Animals

via:odditycentral・原文翻訳:R

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http://karapaia.livedoor.biz/archives/52161549.html
http://news.2chblog.jp/archives/51789948.html

11-Year-Old Artist Creates Amazingly
Detailed Drawings of Wildlife
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http://www.mymodernmet.com/profiles/blogs/dusan-krtolica-drawings

2014/05/03 海外「俺の夢の家だ…」
海外で建てられた超高級な日本家屋が物凄い

映像は高級住宅を専門に扱っている不動産会社が投稿した
もので、カリフォルニア州の高級住宅地、
ティブロンにある純和風住宅が紹介されています。

築年は1986年(築28年)で坪数は130。
部屋数は全部で10あり、ベッドルームと浴室が5つずつ。
当初の販売価格は790万ドルでしたが、
現在は590万ドルまで下がっているようです。

贅沢な作りの純和風造りの家に、外国人からは
様々なコメントが寄せられていました。

Contemporary Japanese Style Home in Tiburon, California

■ 息を呑むような凄さっていうのは
 正にこういう事だな!!! アメリカ

■ 俺も将来はこういう家に住んでやるぜ! アメリカ

■ カリフォルニアにあるんだな。
 今から買いに行くから待ってろよ! イタリア

■ こういう家に住めたらいいなぁ。
 ホントちょうどこんな感じの家が欲しいんだ。
アメリカ

■ この家を色んな人にも観て欲しい。 中国

■ 将来家を建てるって時は、
 こういう感じの家にしたいぜ! アメリカ

■ 日本の裏側にあるような場所だけど、
 日本家屋を建てるには完璧な場所だ。
 しかも素晴らしく美しく仕上がってる。 アメリカ

■ 動画を観てるあいだ、
 「こりゃすげー……俺も買えるのか?」
 って感じの言葉をずっと繰り返してたよ、ハハ。
 最高の家だね。 アメリカ

■ 音楽がまた感情に訴えてきていい! 泣きたいw
 この家は、文字通り夢の家ってところね♡ オーストラリア

■ 凄いなんてもんじゃないだろこれ! 
 よっし、今から貯金を初めておいたほうが良さそうだな。
アメリカ

■ あんな素敵な家に住めたら最高だよなきっと。 台湾

■ 目を疑っちゃうくらい素敵。
 私もこんな家に住めればなぁ %_% アメリカ

■ 俺が夢に描いてた家が具現化されてるじゃん!
アメリカ

■ 心を鷲掴みにされちゃったぜ!
 夢でもいいからこんな家に住みたいぞ。 アメリカ

■ こんなの見て驚かないほうが無理!
 メチャクチャクールな家だね~♡ 国籍不明

■ 値段が気になる人が多いようだけど、690万ドルだって。
 高いけど、あんな素晴らしい家だって事を
 考えると安いくらいだよ。 アメリカ

■ 690万ドル。さあ、美しさに詰まったこの家を
 買っちゃおうじゃないか。 アメリカ

■ 1000万ドル以下だろうとは思ってたけど
 やっぱりそれくらいなのか。 アメリカ

■ 外観とか中とか、全体的に本当に素晴らしい家だと思う。
アメリカ
 
■ ここに住めるって言うなら、
 今すぐにでも移り住みたい。 イギリス

■ これはまた素敵な家ですな~。 ポルトガル

■ ああいう家って、どうやって雨どいを
 屋根と繋げてるんだろう? アメリカ

■ とても独特だし、間違いなく特別感を味わえるだろうね。
アメリカ

■ 俺の夢の家だ……。
 アメリカにこんな家が建てられてたなんて知らなかったよ。
アメリカ

■ この家と同じ感じのマイホームが凄く欲しい……。
 本当に綺麗だ……。 アメリカ

■ 泣けてくる。ホント、素敵すぎて観てるだけで泣
 けてきちゃう :') アメリカ

■ この家の図面を凄く見てみたいんですけど :3 アメリカ

■ あの家を作った人達は、本当に見事な仕事をこなしたね。
アメリカ
 
■ ビックリするくらい凄い! フランス

■ オーマイガーッ。目を見張る美しさっていうのは
 こういうことだな O_O アメリカ

■ キャー!!! こういう家大好き!
 素敵過ぎるー!!! スペイン

■ WOW なんて綺麗な家なんだろう。
 僕は52年間カリフォルニアの海岸沿いに住んでる。
 あの家はこの地域で最高の家の1つだと言わざるを得ない!
 マリブにあるどの邸宅にも引けをとらないくらい美しい。
 本当に、他とは比べることが出来ない魅力が詰まってるよ!
 ありがとう! アメリカ

http://kaigainohannoublog.blog55.fc2.com/blog-entry-1163.html

2014/05/04 海外「戦没者への追悼は当然」
外国人女性が靖国神社を訪問した動画が話題に

「国を守るために尊い生命を捧げられた246万6千余柱の
方々の神霊が、身分や勲功、男女の別なく、すべて祖国に
殉じられた尊い神霊(靖国の大神)として、斉しくお祀り
されてい(※ホームページより)」る靖国神社。
元来は東京招魂社という名前でしたが、1879(明治12)年
に明治天皇の命名により、靖国(「祖国を平安にする」
「平和な国家を建設する」の意)神社に改められました。



by huttonde | 2014-05-06 11:03 | 国外くっくり | Comments(0)
トホホな社会 831
【青山繁晴】靖国神社に合祀されるべき魂[桜H25/11/1]


長文になったから載せ直した。

2013年8月15日
昭和天皇暗殺未遂事件(宮城事件)の日に
靖国神社に参拝するといふ事の意味
http://tokumei10.blogspot.com/2013/08/blog-post_5487.html
2013年12月22日
靖国A級戦犯合祀を決定をした松平永芳宮司のバックは
当山派(醍醐寺三宝院系の修験者)@薩摩
http://tokumei10.blogspot.jp/2013/12/a.html

それ以前に幕府側を無視して、英霊の基準も曖昧なまま
薩長神社という差別を続けているしどい現実。

考えたきっかけは、小栗殺しとその名誉毀損(隠蔽)を
続けている明治政府と、おそらくアカの結託による
幕府否定、歴史捏造への反発から。


典型的暴論。「yahoo!クソ袋 回答編」だな。

幕末に「日本」が無かったとは新説か?
各国は何と外交し、交渉していたのかネ。
国じゃなかったら植民地にされてるっつーの。
日本の政権は徳川幕府。当然外交も担当。
それに逆らったのが薩長。てめえで国の足引っ張っといて、
旧幕府が逆賊とは矛盾てわからんのか。
薩長側だけが天皇のために死んだわけもなく、英霊認定
されている坂本龍馬は天皇のために死んだのかネ。
薩長の仲を取り持った武器商人に過ぎない。

以下引用。

靖国神社には、戊辰戦争やその後に起こった佐賀の乱、
西南戦争といった国内の戦いで、近代日本の出発点となった
明治維新の大事業遂行のために命を落とされた方々をはじめ、
明治維新のさきがけとなって斃れた坂本龍馬・吉田松陰・
高杉晋作・橋本左内といった歴史的に著名な幕末の志士達、
さらには日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦・満洲事変・
支那事変・大東亜戦争(第二次世界大戦)などの対外事変や
戦争に際して国家防衛のために亡くなられた方々
神霊が祀られており、その数は246万6千余柱に及びます。

靖国神社に祀られているのは軍人ばかりでなく、戦場で救護の
ために活躍した従軍看護婦や女学生、学徒動員中に軍需工場で
亡くなられた学徒など、軍属・文官・民間の方々も数多く
含まれており、その当時、日本人として戦い亡くなった台湾
及び朝鮮半島出身者やシベリア抑留中に死亡した軍人・軍属、
大東亜戦争終結時にいわゆる戦争犯罪人として処刑された方々
などの神霊も祀られています(参考資料)。

このように多くの方々の神霊が、身分・勲功・男女の区別なく、
祖国に殉じられた尊い神霊(靖国の大神)として一律平等に
祀られているのは、靖国神社の目的が唯一、「国家のために
一命を捧げられた方々を慰霊顕彰すること」にあるからです。
つまり、靖国神社に祀られている246万6千余柱の神霊は、
「祖国を守るという公務に起因して亡くなられた方々の神霊」
であるという一点において共通しているのです。

もっと詳しく|靖国神社の由緒|靖国神社について|靖国神社
http://www.yasukuni.or.jp/history/detail.html

「戦没者」の定義 | 政治のQ&A【OKWave】



by huttonde | 2013-12-27 05:16 | 利敵・工作(付け足し) | Comments(0)
時代劇
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『空っ風吹く』 小栗忠順と次郎太

※大雑把な話・流れ

空青くも、強いからっ風が吹く昼下がり。
遠くまで広がる干上がった田畑、畦道からは嫌がらせの
ように砂埃が舞い上がり、歩くことを邪魔するがごとく
横風が吹きつけている。
その畦道一本、そこに小さな風呂敷包みを背負った粗末な
百姓姿で、片目の若者が歩いている。その後ろから遠く、
人影が三つ迫って来る。
「待て、次郎太」
三人の浪人風の男が走って来て次郎太を前後にした。
このまま逃げられると思うな、金を出せと抜刀して脅す
浪人に、次郎太はぼそっと
「そういうのやめようよ」
と答えてしゃがみ込むが、浪人二人は斬りかかろうと
刀を構え、一人は次郎太の目の前に刀を突きつける。
たいした額ではないのにとボソボソ言い訳する次郎太、
地べたに落書きをする風であったが、いきなり砂を浪人の
顔に投げつけ、浪人が顔を背けた途端に、腰の脇差を抜き、
飛び掛るように浪人の小手から首をなぞって背後に回った。
刃の衝撃は浪人の首にかかり、鮮血を噴き出して横に
崩れ落ちた。
これを見たもう一人は夢中で上段から降りかかるが、小柄な
次郎太はその下へ潜るような勢いで突っ込み、小手を下から
斬り上げた。思わず浪人の手が緩んで刀が落ちかかると、
次郎太の脇差が叩き落すように斜めに振り下ろされ、刃は
深く浪人の首を切り裂いた。
浪人は前のめりに膝を着き、その場に倒れた。
残る一人も予想外の展開に慌てて斬りかかるが、次郎太の
突き上げるような脇差は、相手の左手首に直撃し、
これもまたまもなく倒れ込んだ。
「銭より命だんべが」
血糊の付いた脇差を浪人の袖で拭い、顔に付いた血を
腰の手ぬぐいでふき取ると、「罰としていくらかちょうだい」
と、両浪人の袂や懐を漁り、小銭を手にすると
その場を離れた。が、引き返して刀も三本もらっていった。

西洋列強が世界中を植民地化し、
日本にもその矛先が向いてきた幕末。
嘉永六年(1853)六月に、東インド艦隊司令長官の
ペリーが米国使節として四隻の軍艦で江戸の庭ともいえる
江戸湾に入り、久里浜に上陸してフィルモア大統領の
国書を幕府側に手渡した。
いわゆる黒船の来航で、庶民は無論、事前に情報を掴んで
いたとはいえ、江戸近辺での黒船の行動に幕府も驚き慌てた。
翌月になると長崎にはプチャーチン提督のロシア艦隊が
やってきた。いずれも国交を結ぶべく開国要求だった。
徳川幕府は自らの心許ない軍事力から、攘夷を望む朝廷の
意に反して開国を決断した。これを機に我もまたと同様の
条約を望むイギリス、フランス、オランダ、ポルトガルと
後に続いた。これにより国内では、幕府を弱腰として
責め立て、尊皇攘夷と倒幕の気運が高まり、各藩では
意見対立が起こり、井伊大老暗殺の桜田門外の変をはじめ、
要人暗殺や強盗放火などで江戸や京の治安は乱れて、
混迷の様相を呈してきた。

・・・・

幕府の開国政策によって行われた遣米使節の一員として、
交渉事を監視する役(目付)を担った幕臣の小栗忠順は、
目的の一つだった貨幣の交換比率是正のための交渉で不公正
な実態を米国側に認めさせた。これは先の日米修好通商条約
で通貨の交換比率を、日本と欧米では銀の価値が違うにも
関わらず重さのみで決めてしまったため、一ドル銀貨が
一分銀三枚、一両小判に相当して、米国で地金として売れば
大きく利ざやを稼ぐことが出来たので、それを知った外国
商人から外交員や船員までが、競うように一両小判を手に
入れて外国へ持ち出し、国内では急激な物価上昇が生じて
経済に悪影響を及ぼしていた。
本来、この通貨交換比率の問題は水野忠徳(ただのり)が
着目し、米国総領事のハリスや英国のオールコックとの
交渉議題になっており、遣米使節団の一員となる予定
だったが、既にハリスとの間で日米修好通商条約に調印
したとして、尊皇攘夷として交渉に反対する一橋派や朝廷
からの批判を受けて、大老井伊直弼は交渉役だった水野や、
同席していた岩瀬忠震(ただなり)や川路聖謨(かわじ
としあきら)、永井尚志(なおゆき)ら開国派を左遷
していた。
その井伊が家柄や経歴、人柄などを吟味して水野の代役
として抜擢したのが若き小栗忠順だった。
外国船が度々訪れるようになっていたこの頃、小栗は
詰警備役として江戸湾での守りに当たっていた。立場上、
いざとなれば一戦の覚悟はあるものの、各国の黒船を見れば、
その技術力や、それを生み支えている経済力は日本を
超えているであろうと容易に察しがつく。到底頑迷固陋
なる攘夷には与しなかった。
井伊も表立っては言えないが、開国は必至とわかっている。
小栗の見識と実直さを知った結果、使節団の三番手といえる
目付け役という大役を任せた。
小栗は外交実績のある水野に詳しく外交の経緯を教わり、
水野も小栗を認めて要諦を伝えていた。
通貨交換比率は条約批准の目的から主要な議題から外れて
いたが、無視出来ない問題だった。
こればかりは経済に疎い正使の新見正興や副使の村垣範正
ではなく、認識深く剛胆の気質ありとして、水野から直々に
小栗自身が交渉に当たるべしとの指示を得ていた。
小栗は非公式ながら一分銀と同等の一分金をそれぞれ現地
造幣局で分析を強く要請、その含有率の正確さと価値を
確認させて比率是正を訴えた。
政府間としての合意には至らなかったが、
米国側は分析結果を認めた。
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安政七年・万延元年(1860)4月5日
ワシントン海軍工廠での使節団:
正使 新見正興(前列中央)、
副使 村垣範正(前列左から3人目)、
監察 小栗忠順(前列右から2人目)、
勘定方組頭、森田清行(前列右端)、
外国奉行頭支配組頭、成瀬正典(前列左から2人目)、
外国奉行支配両番格調役、塚原昌義(前列左端)
小栗忠順 - Wikipedia
万延元年遣米使節 - Wikipedia
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Old Japan Comes to Life in Images From
The Metropolitan Museum of Art Archives
| Spoon & Tamago


小栗の堂々とした交渉や言動は米国側でも評判となり、
幕府もその功を認めて帰国後は外国奉行に就任したが、
まもなく対馬に来た露国船の乗組員達による占拠事件で
交渉に手間取り、上司である老中安藤信正に、各国が狙う
重要地点である対馬を幕府直轄地にして防備を充実させる他、
正式に幕府と露国政府との外交に持ち込むべきと献策するも、
容易ではないと保留され、英国海軍の協力を考えていること
を知らされた。小栗は後顧の憂いを残すとして、英国の関与
には頑として反対したが、安藤は既に決めているらしく、
小栗の意見を聞き流す風だった。
もはや打つ手無しと小栗は奉行を辞職し、無役として
日を送ることになった。

その後対馬の露国船は、幕府の要請による英国海軍の軍艦
が警告することで立ち退かせることが出来たが、この事件で
幕府の無力ぶりが知れ渡って攘夷の気運は一段と強まり、
小栗もまた無能な幕府方として、対馬や周辺から恨みや
侮りを受けることになった。
後に英国への協力要請は勝安房守が安藤に献策したと聞いた
小栗は不快さを増すばかりだった。
英国公使ハリー・パークスは、幕府の要請に応えて軍艦二隻
を派遣し、露国船を立ち退かせることに成功したが、
パークスもこれにより対馬占領の必要性を英国本国に
伝えていた。しかし、このことが知られるのは随分後の
ことで、日本側で知るものはいなかった。

・・・・

ある朝、江戸城外堀は御茶ノ水付近の土手で目を覚ました
次郎太が歩きだすと、前方の一角で数人の武士が抜刀して
にらみ合っていた。
登城途中だった小栗忠順の一行を浪士達が
囲んでいたのだった。

小栗は直心影流免許皆伝の腕前で、護衛の供も相応の腕を
持っていたが相手は多勢、即撃退も難しく、致命傷を与える
ことも受けることもないまま、膠着状態となっていた。
そこへ次郎太は出くわした。

次郎太は斬り合いの場を見て、襲っているらしき浪士達の
背後で見据えている男を、背後から刀で突き刺した。
男は前に倒れ、それに気づいた浪士達は不意を突かれた
様子で隙を見せた。たちまち浪士三人が小栗側の反撃に
合って負傷し、間もなく遠くから奉行所の同心達が岡っ引き
と駆けつけて来たのを知ると、浪士達は戦意喪失となって
その場を逃げ出した。

危険を脱した小栗は、次郎太に礼を述べると、返礼に腹の
虫を聞く。事情を聴くと、上州の村からやって来た百姓の
倅で、当てもなく江戸までやって来たという。
小栗は次郎太に供を一人つけて、自宅で飯を食わせるよう
指示すると、自身は登城して行った。

午後、小栗が帰宅すると、次郎太は既に家を出ていた。
付き添った供から詳細を聴いた小栗は、次郎太を呼び戻す
よう命じた。
小栗の供達が再び次郎太の姿を目にしたのは、次郎太が
二人の武士に斬られようと囲まれた直後だった。
探していた供が四人合流してその場に来たため、
武士達はそのまま逃走し、次郎太は難を逃れた。
おそらく小栗襲撃の失敗を恨んでの報復ではないかとの
憶測が為された。

・・・・

小栗邸に戻った次郎太は、小栗に危機を救われた礼を述べ、
改めて挨拶しようと小栗と家臣数名を前に口上を述べた。
「お控えなすって、小栗の殿様、そして御一党の皆々様に
お控えなすって、我が身救われた手前、皆々様に厚く御礼
申し上げると共に、改めて御挨拶の口上を申し上げます。
手前生国は上州は前橋、その南の東群馬郡後閑村という
寂れた村にござんす。夏は暑く雷うるさく、冬はかじかんで、
春先には空っ風が邪魔な荒れた風土で、貧乏百姓の次男坊
として生を受け、名を次郎太と申します。
餓鬼の頃から親父や兄の野良仕事を手伝ってまいりましたが、
その親父も兄にも死に別れ、義理の母とは縁薄く、母は実の
娘の嫁ぎ先へ移り、手前もまた百姓を捨てて近隣の剣術道場へ
修行を兼ねて小僧として住み込みましたが、兄弟子達の悪意
丸出しのしごきに耐えかね、それを知りながら放任の道場主
にも腹を立て、ついに一年半程で情けなくも逃げ出しました。
その後、その地域を治める親分の下で小僧として働くこと二年、
博打に明け暮れる者達に囲まれての暮らしにこのままでいかん
と考えを改め、江戸行きを決めて数日、人足寄場(よせば)
にでも行こうかと、この近くまでたどり着きましたるところ、
目の前にお殿様御一行が賊に囲まれていたのを目に致し、
その不義は無視できぬと手前も思わず抜刀したという次第に
ござんす」
小栗は退屈そうな顔で、
「・・・・長いなあ。簡潔で構わんぞ」
「へぇ、丁寧な挨拶のつもりでしたが・・・・」
「次郎太、か。博徒だったのか」
「いえ、その見習い小僧といったところで」
「門前の小僧、習わぬ経を読む、だな。うむ、相分かった」
「また、御屋敷に招かれまして、一飯の御恩まで預かり、
この次郎太、数日の空腹を癒すこともできまして、深く感謝
申し上げると共に、御殿様、御一党の皆々様、不肖この
次郎太、何卒宜しくお見知りおきの程をお頼み申し・・・・」
「わかった、次郎太、もうよい、長いのは苦手じゃ。
追々聴いておこう」
小栗は苦笑して話を切り上げた。

次郎太の刀は父の形見の脇差で、代々受け継がれていた
というが、由来はわからないままという。
小栗が次郎太の右目について聞くと、子供の頃に若い武士
から斬られたという。次郎太が遊んでいるうちに通り
かかった武士にぶつかってしまい、激怒した武士に謝れと
怒鳴られたが次郎太は謝らず、武士が抜刀して脅すつもりが
当たってしまったらしい。小栗が「その武士はどうなった」
と聞くと「お咎めなしでうやむやに」終わったという。
小栗は自分の頬を軽く叩きながら、
「俺の場合はな、子供の頃に疱瘡を患って“じゃんこ”
(あばた)面になっちまって、近所の連中から
『じゃんこ殿が来た~』なんて言われてたよ」
と苦笑した。
小栗は額が張った木槌頭とも言える風貌で、目は冷徹そうな
二重であり、相手を刺すような鋭さがある。ややとがった
あごにしっかり締まった口元も小栗の意志を示している
ようで、改めて小栗と対面した次郎太は、その目つき、
表情に緊張したが、次郎太が特に怪しくもない百姓の子と
安心したのか、小栗は落ち着いた表情に変わっていた。

次郎太は小栗の好意によって中間として奉公することに
なった。
中間とは武家奉公人の一つで、戦国の世でいえば足軽並の
立場である。太平の世となっては主人の登城に護衛として
付き従い、身辺の雑務をこなす者達である。
武士ではないが一町人でもなく、脇差を挿すことも
許された。
次郎太は、小栗から剣の流派を問われると
「門前小僧流生兵法」と答えた。
しかし、小栗の無表情に気が引けたのか畏まって
「むねん、むにゃむにゃ・・・・」
と言い直そうとすると、小栗は「神道無念流か」と
察しをつけて、笑ってそれ以上は尋ねず、
「そうか、俺自身は直心影流の稽古を長年続けてきた。
最近、役を解かれて暇でな、おまえにその気があれば
流派は違うが、初歩の稽古をつけることくらいは出来るぞ。
どうだ」
「へぃ、剣術には興味はありますで、お殿様が
よろしければ、是非とも」
「うむ、毎朝の稽古とするか」
小栗が微笑んだ。
次郎太は道場での細かい経緯は話さなかった。
「・・・・ところで」
と小栗が間を置き、
「これまでも人を斬ったことはあるか」
次郎太に聞いた。
次郎太の脳裏に先日斬った3人の倒れた姿がよぎった。
「・・・・いえ・・・・」
次郎太の答えは鈍く、呻くような声をもらした。
「昨今、尊王攘夷を標榜する賊徒達による幕府要人への
襲撃や、同じ者達によるであろう強盗放火が頻発しておる。
今回もまたその騒動と相成ったわけだが、俺は幕府公人
として法を守る義務がある。賊徒同様に安易に切った張った
とやり合うわけにはいかぬ。家来も同様、節度を持って
日々暮さねばならぬ」
「へぇ・・・・」
「当家の中間となれば、決め事は守らねばならない。
勝手な行動厳禁、近隣への対応、日々の言動にも
注意を払わねばならぬ・・・・要は、喧嘩はするな、
気働きを欠かすな、ということだ」
「・・・・へぃ」
「日々の用事については塚本(真彦 まひこ)が
教えてくれる。わからないことがあったら
塚本に聴くがよい。塚本、頼むぞ」
「は」
傍に控えていた塚本真彦(まひこ)勉はまだ二十代の若者で
あったが、播州林田藩主、建部政醇(たけべまさあつ)の
家臣として、政醇の娘道子が小栗家へ嫁ぐ際に随行して
小栗家家臣となり、家来衆をまとめる用人を務めていた。
若いとはいえ落ち着きのある佇まいで、武士として生まれ
育ったであろうことは次郎太にも察せられた。

小栗は時に奉公人達を前に、米国へ行って交渉に臨んだこと
や、様々な地を見学したことを好んで語り、世界各地の
状況や日本の現状、開国の持論などを聴かせることもあり、
親しい来客があれば情報を聴き、議論を重ねるのが
常だった。
寡黙で殺伐とした様子だった次郎太は、気さくで屈託のない
小栗の言動に、次第に信用と興味を持って接し、
日々奉公に専心した。

しばらく後、道場での先輩、平助が次郎太の前に現れた。
平助は次郎太同様に陰険な道場に嫌気が差し、麻布の
毛利甲斐守の屋敷、長州藩江戸藩邸で中間を務めていた。
その後、次郎太と時折会っては時勢を語るようになった。

・・・・・

財政逼迫で人を雇うのも苦労した幕臣達は、登城の供も
玉石混交であり、代々の武家もいれば町人もあり、
小栗の一行もまた同様だった。
次郎太は無学な百姓の出として小栗家でも格下の立場と
なっていたが、屋敷内での雑用のみの下男ではなく、
小栗一行に助太刀した度胸を買われて、登城の供、中間と
しての扱いとなり、幸いに一奉公人として周りとも
支障なく暮らした。

次郎太は小栗の護衛と屋敷での雑用が主な仕事であり、
給金は安いものの衣食住に心配は無く、武家独特の礼儀作法
に気をつける他は、道場での下働き当時と違っていじめも
しごきもなく、心身への苦痛と無縁となっていた。また、
時間に余裕もあって邸内の中間用の長屋で昼寝もでき、
外への御遣い次第では、多少の時間を潰すことも黙認されて
いたので、同じ中間同士で軽く博打をすることもあり、
近所を散策することもできた。

田舎と違って物珍しさもあり、時間があれば方々を歩き回る
次郎太は根付を扱う店を知り、その凝りに凝った品々に
興味を持った。熟練の職人による商品で芸術品でもあり、
手に入れることは無理だったが、頻繁に通っては見物する
ようになり、店の主人に作るための材料や道具を教えて
もらって、主人に無理だと言われながらも道具を少し買い
込んで真似事をすることにした。

一方、外国奉行を辞した後、しばらく寄合いという無役の
小栗は、暇潰しにと次郎太の様子を見るべく邸内の長屋の
一室を訪ねた。次郎太の関心事が増えたことに安心しつつ、
現状を語って身の上を励ました。

その後、小姓組番頭を経て勘定奉行となった小栗は、
逼迫する幕府の財政建て直しに取り組むことになり、
迫る各国の進んだ技術や海軍力に対抗すべく、交流のあった
フランスの協力を得て製鉄(造船)所の建設を立案する。
その先には欧米に伍する大海軍構想があり、約十年の長期
計画で軍艦を三百隻準備し、北は箱館から南は長崎までの
六ヶ所に海軍基地を設け、他国からの脅威に備える
というものだった。
しかしそれを即実現できる予算があるわけもなく、十年と
いえども到底当てにならないとして反対する幕閣は多く、
その一人の勝安房守(海舟)は英国の例を挙げて、軍艦は
数年で造れるが、海軍を運用するには五百年はかかるから、
まずは人材育成を第一に準備し、操船技術習得のための
学校建設を優先すべきと異を唱えた。小栗の海軍構想は
却下されたが、その後も小栗の熱心な働きかけによって、
将軍家茂(いえもち)の許可を得て造船も可能とする
大規模な製鉄所建設が決まった。

勝は自身の功績でもあり諸藩との連絡に役立てていた神戸
海軍操練所の充実を考えていたが、小栗は閉鎖されていた
長崎海軍伝習所の後継として機能し、火災で大半を失って
いた築地の軍艦操練所の再建を考え、これを実行したため、
勝の小栗に対する反発は強まっていた。その上、神戸の
操練所には倒幕を画策する攘夷派も生徒として入り込んで
いることが判明し、勝は責任を取らされて自宅謹慎、
操練所は閉鎖となって、幕府に対する反発も生じて、
倒幕の志士への関わりを深めることになる。

小栗は人材育成を築地の軍艦操練所で継続、更に製鉄・
造船の本格的稼動を考えてのことで、米国から土産として
持ち帰ったねじ釘一本を家臣や次郎太達にも見せつつ、
国内に未だ無いその技術と、それを大量生産し、
大砲や銃器、砲弾等々、各種の工業生産を実現している
米国の現状を語った。
c0072801_1061058.jpg
 http://tozenzi.cside.com/sisetu-gyoseki.htm

小栗に限らず使節と随行員達は、異国異文明である米国の
現状と進んだ工業力に驚愕し、興味津々で各地を見学し
体験した。
更に大西洋航路での打って変わっての各植民地の悲惨な
様子などを目の当たりにして、激しい危機感に襲われた。
「物見遊山と揶揄する奴もいるようだが、
それで済む話ではない。
あの経験は今後大いに活かさねばならない」
と、次郎太達家来を集めて力説した。
「なにより驚いたのは、米国の技術の高さだけではない。
日本への帰路でアフリカの港へ立ち寄ったのだが、そこには
現地民であろう肌の黒い者達が、欧州の白人達によって
首と手足を鎖につながれ数珠繋ぎに引き回される情景を
目にした」
「それは罪人達ですか?」
塚本が聞いた。
「いや」
「現地民の抵抗があって捕虜となったと」
「違う」
家来達は一様にわからない様子で注目した。
「通訳に聞いたところ、彼らは何の罪もない」
「罪が無い・・・・?」
「彼らは奴隷だ。欧州やアメリカの白人達と違い、
アフリカに住む黒人達は国を持てぬまま奴隷として白人に
売られ、苦役に従事する。人として扱われず、仕事への
見返りなどない。牛馬の如く死ぬまでこき使われるか、
弱まれば死すのみといったところだろう」
塚本は苦笑しながら、
「そんな馬鹿な、人が人を一方的に罪人のように捕らえて
こき使うなど、戦の世でも考えにくいものですが・・・・」
「考えにくいが向こうでは現実だ」
家来衆の顔は引きつった。
「恐るべきはそれが日常であり、白人達になんら良心の
呵責が無いということだ。まったく自由の無い、
囚われの身である黒人達に情の欠片も無い。
俺はゾッとしたよ」
一同は無言になった。
「幕府が米国との交渉に向かったのはペリー総督以来の
条約の締結と国家間の交流にあるが、アフリカの惨状を
知るにつけ、我らも油断すれば同じ道を歩まぬとも
限らぬということだ。これはよくよく覚えておかねば
ならぬ」

・・・・

小栗ら遣米使節がサンフランシスコからパナマ経由で
ワシントンへ向かい、米国政府との交渉や諸施設を見学する
経験を経て大いに収穫とした一方、勝は護衛としてブルック
大尉達米国人が操船する咸臨丸でサンフランシスコまで
来ただけであり、そこで日本に引き返していた。
勝は立場も弱く不満が高じて部下にも当たり、行きの嵐では
船酔いで船内の部屋に篭り切った調子で、後に伝染病が蔓延
したと言い訳したが、長い往復の船上生活が、操船と運用に
対するこだわりとなっていた。

この頃、勝の護衛をしていた一人が岡田以蔵で、以蔵は
尊皇攘夷を標榜する土佐勤皇党の一員として、何人もの幕府
側要人を斬っていた。岡田は土佐藩を脱藩後、勝の弟子を
自認する坂本龍馬の紹介で勝の護衛となっていたが、倒幕に
こだわりを持ち、酒癖も悪く、小栗の存在を邪魔とみて勝に
対策を提案するなど、勝もその野心に当惑気味だった。

江戸城下で次郎太ら小栗の供達は、勝と以蔵を見かける。
先輩に説明を受けた次郎太は、以蔵の小栗を見る目の
険しさに異常を感じたが、その場は何事もなく互いに
通り過ぎた。

・・・

次郎太は一年ほど奉公人として地味な生活を続けながら、
多少時間のあった小栗の手ほどきで剣術稽古をしたが、
小栗の講武所御用取扱就任をきっかけに、特別の計らいで
小栗邸にも近い水道橋内三崎町に開設していた講武所で
剣術を習うことになった。
講武所には旗本や御家人など幕府関係者の子弟の他、
各藩からも参加があり、剣術の他に砲術(火縄銃や大筒)
なども教えていた。剣術には直心影流男谷派の祖にして
幕末の剣聖とも云われる男谷信友が講武所頭取並、
剣術師範役となっていた。



by huttonde | 2013-10-10 16:25 | 漫画ねた | Comments(0)
各々諸事情 458
2013年10月3日 イスラエル対イランの直接対決
米帝に見捨てられそうで必死なようですなあ・・・(w

周りがいらぬ口出すからややこしくなるんで、
イスラエル対イラン限定の直接対決で核戦争だろうが
何だろうがどちらかが滅ぶまで
とことんドンパチすれば宜しい。(爆w

http://tokumei10.blogspot.jp/2013/10/blog-post_7208.html

2013年10月3日
米国務長官らが献花へ=千鳥ヶ淵墓苑、外国高官で初



by huttonde | 2013-10-06 09:41 | 国外くっくり | Comments(0)
やっぱり付け足しシリーズ 597
2011年8月11日
親日国家台湾の国会議員、高金素梅さんが靖国神社で抗議活動!

で、桜田組により書類送検されたでござる。(w
これが高金素梅さんの以前の靖国で抗議活動の動画!

靖国合祀に対する台湾原住民の本音(映画「靖国」より抜粋)


この高金素梅さんの
日本の神道に対する主張は正しいアルネ。(爆w
確かに明治以降の無駄死に賛美の神道は
テロカルト同然ですからね。(w
いったい何人、日本の若者を無駄死にさせた事か・・・(爆w
で、その時の満州派サイドの反応が・・・

【門脇朝秀】反日台湾人 高金素梅
告訴・告発 報告集会[桜H22/1/4]

c0072801_17274058.gif
、、、(w
http://tokumei10.blogspot.com/2011/08/blog-post_4609.html

>明治以降の無駄死に賛美の神道は
>テロカルト同然ですからね。(w
>いったい何人、日本の若者を無駄死にさせた事か・・・

これには大いに同意。
もう一つ俺がこだわるのは繰言ながら、
幕府側を逆賊・朝敵扱いで無視し続け、
軍人でも戦没者でもない龍馬ごときを英霊扱いするような
薩長側神社を、日本の英霊集積所にしたのは欺瞞もいいとこ。
先祖を冒涜する差別的な神社は潰した方がいいかもネ。

くたばれ龍馬
やっぱり付け足しシリーズ 534

2011年08月11日
フットボールアワー岩尾「K-popよりJ-popが好き」
→番組から干される(フジテレビ)

1 名無しさん@涙目です。(京都府)
:2011/08/11(木) 19:36:41.26 ID:9NL0DHsS0
岩尾「K-popよりJ-popが好き」

ザキヤマ 番組中に再三に渡って岩尾に警告を促す

岩尾「それでもJ-pop好き」

次週から岩尾のみ干される

18 名無しさん@涙目です。(関西地方)
:2011/08/11(木) 19:39:36.37 ID:UhuzOEwm0
何というかフジテレビって監視員のおかけでむしろ視聴率が
上がっているんじゃね

53 名無しさん@涙目です。(catv?)
:2011/08/11(木) 19:42:19.88 ID:T1yBtMxO0
>>18
もちろんスポンサーもチェックしてるぜ!

168 名無しさん@涙目です。(チベット自治区)
:2011/08/11(木) 19:47:56.76 ID:9z21uoNy0
>>53
視聴率は上がるが、スポンサーの売上が落ちるということだな

142 名無しさん@涙目です。(群馬県)
:2011/08/11(木) 19:47:00.14 ID:Ek9yXOiv0
>>18
それはあるな

370 名無しさん@涙目です。(dion軍)
:2011/08/11(木) 19:55:27.03 ID:tffhWUYj0
>>18
視聴率の出るやつもってない人が多いだろ

809 名無しさん@涙目です。(catv?)
:2011/08/11(木) 20:12:05.57 ID:ivJAggJz0
>>18
監視員に視聴率調査機ついてると思うか?

55 名前:名無しさん@涙目です。(チベット自治区)[]
投稿日:2011/08/11(木) 19:42:20.52 ID:3QdrYwnt0
朝鮮こえー

58 名前:名無しさん@涙目です。(九州)[]
投稿日:2011/08/11(木) 19:42:27.06 ID:CirSAn5oO
異常だな在日に支配されとるわ

63 名前:名無しさん@涙目です。(九州)[]
投稿日:2011/08/11(木) 19:42:45.81 ID:13Hu9A5yO
ザキヤマ頑張ったのに岩尾くんは…

143 名前:名無しさん@涙目です。(チベット自治区)[] 投稿日
:2011/08/11(木) 19:47:01.38 ID:twnMcu780 [2/2]
>>63
岩尾は2回目か3回目で、怯えた感じ出しつつ
「け…K-POP最高です!」
って言ったほうが笑い的にも保身的にも良いぞ、
って思ったんだろうな
ザキヤマは

116 名前:名無しさん@涙目です。(チベット自治区)[sage]
投稿日:2011/08/11(木) 19:45:51.06 ID:tF5w//fh0
朝鮮人は短絡的でわかりやすいわ

107 名無しさん@涙目です。(北海道)
:2011/08/11(木) 19:45:27.04 ID:qc30TpGx0
>>1
岩尾ももう少し考えて喋れよ・・・
フジのアホどもが韓流(笑)を後押ししてるのは
知ってんだろうから、
こういう時は嘘でもいいからノッとけって
一芸人が番組の企画者やスポンサーに反旗翻したら
仕事もらえなくなるに決まってんだろ
そういう批判はコメンテーターとか視聴者に任せて、
出演している芸人は心の底では嫌ってても番組では
「好きなんですよ~」ってノッとけよ・・・
まぁこういう事を平然とするフジとかはさっさと潰れて、
顔面も頭もイッちゃってる韓国人さんは
さっさと祖国にお引取りください
日本にいていい韓国人はのはサッカー日本代表の李のように
日本籍を持っていてに納税してくれてる人だけです

133 名無しさん@涙目です。(兵庫県)
:2011/08/11(木) 19:46:44.24 ID:hfGktxV70
>>107
一度本当にどうなるかやってみたかったんじゃないの?

259 名無しさん@涙目です。(チベット自治区)
:2011/08/11(木) 19:51:28.19 ID:e+Q4+Y7v0
>>107
フットはフジで干されたところで大阪やルミネで
腐るほど仕事あるから強気なんじゃね?

214 名無しさん@涙目です。(愛知県)
:2011/08/11(木) 19:49:51.39 ID:bCctWZ780
岩尾正直だなw
J-POPってJ-POPの例えば何がいいんだろうな。
昔の歌謡曲なら支持したい

322 名無しさん@涙目です。(dion軍)
:2011/08/11(木) 19:53:40.43 ID:yksEDGxo0
>>214
彼が好きなのはBerryz工房

394 名前:名無しさん@涙目です。(中部地方)[] 投稿日
:2011/08/11(木) 19:56:26.15 ID:/SaVDK740 [1/4]
つか最近相方ばっかテレビで見るわ
これが原因か?

375 名無しさん@涙目です。(dion軍)
:2011/08/11(木) 19:55:36.97 ID:QWoeWLnLP
>>1
動画見たけどいつ山崎が警告したの?
「岩尾さんは寒流どうですか?」
「僕は寒流よりJPOPのが好きです」
っていう笑いの流れを繰り返してるだけのギャグじゃん。
天丼っていうんだっけ?

407 名無しさん@涙目です。(dion軍)
:2011/08/11(木) 19:56:47.76 ID:F9hi86gm0
>>375
どうギャグになってるの?
繰り返すのを天丼っていうのはわかるけど

486 名無しさん@涙目です。(dion軍)
:2011/08/11(木) 19:59:31.94 ID:QWoeWLnLP
>>407
アスペ?
寒流について盛り上がっている中、一人だけ冷めた口調で
「僕はJpopのが好きです」っていうのが面白いんだろ。
現に笑い生まれてんじゃん。

819 名無しさん@涙目です。(宮城県)
:2011/08/11(木) 20:12:40.20 ID:yM4U11mj0
c0072801_23382992.jpg
後ろも思いっきりKARAに掛けてるな

886 名無しさん@涙目です。(dion軍)
:2011/08/11(木) 20:14:57.44 ID:eS3DMhCh0
>>819
サブリミナルきたー

http://alfalfalfa.com/archives/4133969.html
http://netateki.blog46.fc2.com/blog-entry-4028.html

by huttonde | 2011-08-11 17:41 | 利敵・工作(付け足し) | Comments(0)