冷飯は体も冷える
by huttonde
カテゴリ
地球壁紙画像
今日の富士
富士山カメラ
色々富士

ハン板電突まとめ
mumurブルログ
万毛号止掲示板
マーキング
香ばしい掲示板
楽韓Web
厳選韓国情報
極東情報網録
ぼやきくっくり
アジアの真実
木村幽囚記
dreamtale日記
日本人よ誇りをもて
日本再生倶楽部
兵頭二十八
ヒロさん日記
宮崎正弘
アンチキムチ団 匿名党
大阪在住
山岡俊介
なめ猫♪
東亜マンセー協会
酔夢ing Voice
桜井よしこ
Red Fox
ざんぶろんぞの怪人日記
朝鮮歴史館
陳さんのWorld view
特定アジアニュース
U-1NEWS
2ちゃん的韓国ニュース
丁寧語とか、礼儀正しく書いてみる日記2
何でもありんす
東京エスノ
保守速報
モナニュース
もえるあじあ(・∀・)

まとめサイト
海外の反応ARCHIVE
ショボンあんてな(`・ω・´)
ヌルポあんてな

余命
余命三年ミラー
余命官邸メール
日下公人
高山正之 
武田邦彦
宮脇淳子

AshCat
パクリ大国南鮮
K国の方式
半島大陸メモ
檀君 WHO's WHO
韓国のHPを日本語
ビラのHP
たまねぎ屋HP
もう黙ってはいられない
新聞宅配問題

mynippon
ch桜 ニコ動
ch桜 youtube
ミコスマ保管所
国際派日本人
大紀元
日本戦略
憂国資料
アジア歴史資料
国立公文書館
アジアメディア
論談
民間防衛
国民が知らない反日

・     
・ 
・ 
・ 

赤塚
水木
杉浦
漫画家志願
鬼太郎人魚売
タコラ
ニコ動落語

東京情報
群馬弁
何日
こよみページ(旧暦)
東京浴場組合
銭湯・温泉・サウナ
大島てる

radiko
三枚 ニコ動
煮込みおせち5
煮込みおせち4
煮込みおせち3
煮込みおせち2
煮込みおせち
煮込みおせち 音楽5
煮込みおせち 音楽4
煮込みおせち 音楽3
煮込みおせち 音楽2
煮込みおせち 音楽
まじめちゃん4
まじめちゃん3
まじめちゃん2
まじめちゃん
フュージョン・スムースジャズ
スムースジャズ中心
BEST JAZZ TIME
【ながしの】Smooth Jazz
【自己満足】


free counters
検索
お気に入りブログ
最新のコメント
そうでしたね。俺の地元前..
by huttonde at 16:02
 前方後方墳というのは実..
by 通りすがり at 11:14
バカバカしさここに極まれ..
by 少しは考えろ at 14:05
この様な書込大変失礼なが..
by aki at 22:56
ジャニーズでこうなのなら..
by 通りすがり at 10:52
小生も積読の傾向があり1..
by motsu2022 at 05:35
Stupid  
by motsu2022 at 08:06
中国のミサイルが初めて日..
by aki at 03:11
いつもの社交辞令です。 ..
by huttonde at 15:17
少し前のコメントで、ピカ..
by ポポポ大王 at 08:41
by huttonde at 01:53
結局飲みに行ったの?
by ポポポ大王 at 00:55
???
by huttonde at 15:43
突然のメッセージにて失礼..
by 外岡誠 at 11:36
>子供が学校でこの記事の..
by huttonde at 21:57
> 名無しさん 外見を..
by huttonde at 11:56
先日、菅原経産相が香典問..
by 山尾議員の香典問題の謝罪まだ? at 15:42
こんちは。俺はもう関わり..
by huttonde at 01:27
こんにちは。 以前から..
by 味噌くん at 12:30
9条の会、国際交流の会豊..
by 匿名 at 23:21
最新のトラックバック
タグ
ライフログ
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
国賊長命国士短命
国賊長命国士短命_c0072801_12444686.jpg
           牟田口廉也

例外はあれど。いかにもな。
知らない人による国賊話写し。
----------------------------------------------------
[44852] 帝國陸軍軍人の恥 投稿者:フリー
投稿日:2008/01/08(Tue) 01:34

皆様の心意気に水をさすつもりは毛頭ございませんが若くして散っていった特攻隊員や皇軍の兵士たちの無念さを思うとどうしても一言述べざるを得ません。国賊といわれる東条を取り巻いた三奸四愚のなかで特に牟田口、上村、富永、辻の四陸軍奸物について述べさせていただきます。瀬島に負けず劣らず恥知らずな語るにも忍びない卑怯・下劣者たちであります。でははじめに牟田口より。
----------------------------------------------------
[44853] その一-牟田口 投稿者:フリー
投稿日:2008/01/08(Tue) 01:39

牟田口 廉也(むたぐち れんや、明治21年(1888年)10月7日 - 昭和41年(1966年)8月2日)は、佐賀県出身の陸軍軍人。陸軍士官学校(22期)卒、陸軍大学校(29期)卒。

盧溝橋事件や、太平洋戦争(大東亜戦争)開始時のマレー作戦や同戦争中のインパール作戦において部隊を指揮する。最終階級は中将。今日における評価は非常に低い。木村兵太郎や富永恭次と同じく東条英機に重用され、いわゆる三奸四愚と並んで東条の腹心の部下の一人であったが、インパール作戦における様々な行動は批判されることが多い。
--------------------------------------------------
[44854] 牟田口その二 投稿者:フリー
投稿日:2008/01/08(Tue) 01:45

少佐時代にカムチャッカ半島に潜入し、縦断調査に成功している。昭和12年(1937年)盧溝橋事件で中国側への攻撃を「支那軍カ二回迄モ射撃スルハ純然タル敵対行為ナリ 断乎戦闘ヲ開始シテ可ナリ」(支那駐屯歩兵第一連隊戦闘詳報)として独断で許可し、日中戦争の端緒を作り出した。盧溝橋事件後の会合に負傷していない腕を包帯で吊って出席した、というエピソードもある。1941年の太平洋戦争開戦直後のシンガポール攻略戦で名を馳せたが、インパール作戦では決定的な敗北を喫した。
--------------------------------------------------
[44855] 牟田口 投稿者:フリー
投稿日:2008/01/08(Tue) 01:50

第15軍司令官に就任し、昭和19年(1944年)3月から開始されたインパール作戦では、ジャングルと2000m級の山岳が連なる地帯で補給を軽視した作戦を立案した。
当初、上部軍である南方軍司令官や自軍の参謀、隷下師団は補給が不可能という理由でほぼ全員が反対した。しかし、牟田口は「イギリス軍は弱い、必ず退却する」と強硬に主張、やがて南方軍も大本営も作戦を承認することになった。しかし、危惧通り作戦が頓挫した後も強行・継続し、反対する前線の師団長を途中で次々に更迭した。
一介の中将に過ぎない牟田口が本来親補職(天皇より任免される職)である師団長を独断で更迭することは、前代未聞の事態であった。ビルマ方面軍司令官河辺正三中将はこうした惨状を前に「こんなことで作戦がうまくいくのか?」と疑問を呈したというが、口を差し挟むことは行わなかった(河辺は盧溝橋事件の際も牟田口の上官であった
-----------------------------------------
[44856] 牟田口 投稿者:フリー
投稿日:2008/01/08(Tue) 01:55

またこのとき、戦況の悪化、補給の途絶にともなって第31師団長佐藤幸徳中将が命令を無視して無断撤退するという事件を引き起こした。なお、補給については牟田口は、牛に荷物を運ばせて食糧としても利用するという「ジンギスカン作戦」を実施させたが、もともとビルマの牛は低湿地を好み、長時間の歩行にも慣れておらず、牛が食べる草の用意もおぼつかなかったため、牛はつぎつぎと放棄され、ジンギスカン作戦は失敗した。

牟田口は作戦が敗色濃厚と知るや、15軍の撤退を待たず「北方撤退路の視察」を名目に敵前逃亡した。この点について牟田口自身は戦後、防衛庁戦史編纂室に対して「当時、私が第一線にとどまることに身の危険を感じたため、シュウェボにいち早く後退したかのように言われるのは心外至極のことである。あの時、軍司令官たる私がチンドウィン河畔に留まって諸隊の退去を指導することの重要さは私も十分承知していた。しかし、それよりチンドウィン河以東ジビュー山系間の補給体系をすみやかに確立することこその行動であった。卑怯呼ばわりされては、悲憤の涙なきを得ない」と弁解している。
---------------------------------------------
[44857] 牟田口 投稿者:フリー
投稿日:2008/01/08(Tue) 02:01

作戦失敗の責任が牟田口ただ一人の失策によるものではなく「輜重輸卒が兵隊ならば蝶々蜻蛉も鳥のうち」の言葉に代表される、日本軍全体にはびこっていた補給軽視、機械化軽視の構造的原因が根底にあったことは間違いないが、一連の作戦指導が牟田口の評価を著しく下げたことは否定できない。

この頃つけられた呼び名は「鬼畜牟田口」。また当時このような歌も流行った。「牟田口閣下のお好きなものは、一に勲章、二にメーマ(ビルマ語で女)、三に新聞ジャーナリスト」。このインパール作戦失敗ののち予備役に編入されるが、その直後陸軍予科士官学校校長に就任し、終戦を迎える。終戦後、戦犯容疑で逮捕されてシンガポールに送致されるが、作戦失敗で日本軍の甚大な損害を招き、英軍の作戦遂行をむしろ容易にしただけであったため、不起訴処分となって釈放された。

戦後は東京都調布市で余生を送るが、インパール作戦失敗の責任を問われると、「あれは私のせいではなく、部下の無能さのせいで失敗した」と牟田口は頑なに自説を曲げずに自己弁護に終始した。さらにラジオやテレビ、雑誌などで、機会さえあれば同様の主張を繰り返している。ついには国立国会図書館が盧溝橋事件についての証言の録音を牟田口に求めたときにも、最初予定のなかったインパール作戦の録音を無理に頼み込んで行わせた。1966年死去。なお兵士たちへの謝罪の言葉は死ぬまで無かったという。
------------------------------------------------
[44858] 牟田口 投稿者:フリー
投稿日:2008/01/08(Tue) 02:07

インパール作戦が敗色濃厚となり部下(参謀の藤原岩市といわれる)に「陛下へのお詫びに自決したい」と相談した時に、部下から「昔から死ぬ、死ぬといった人に死んだためしがありません。 司令官から私は切腹するからと相談を持ちかけられたら、幕僚としての責任上、 一応形式的にも止めないわけには参りません、司令官としての責任を、真実感じておられるなら、 黙って腹を切って下さい。誰も邪魔したり止めたり致しません。心置きなく腹を切って下さい。今回の作戦(失敗)はそれだけの価値があります。」と言われたが、結局自決することはなかった。

前線では補給不足で苦戦が続くなかで司令部に清明荘という料亭と芸者を随伴させ、遊興に耽っていた。しかも、作戦中も毎日5時を過ぎると自宅へ帰り、そこで浴衣に着替えて料亭へ出向く生活ぶりは英軍に筒抜けであった。英軍はこれを前線でスピーカーを通じて流したため日本軍将兵の士気を著しく下げた。
敗色濃厚と見るや司令部の裏手に祭壇を築き、作戦指揮そっちのけで毎朝戦勝祈願の祝詞をあげていた。
-----------------------------------------------
[44859] 牟田口 投稿者:フリー
投稿日:2008/01/08(Tue) 02:12

失敗したら腹を切れ」と部下を難詰するも、自身は自決することなく、余生をまっとうした。
牟田口は前線部隊に対しては現在地死守の命令を繰り返すのみで撤退を一切認めなかった。この死守命令の結果として前線部隊は壊滅し戦線は崩壊、司令部が敵の攻勢にさらされる可能性が出てきた。牟田口はこの危険を察知するや現在地を死守することなく指揮下部隊を置き去りにしていち早く戦域を離脱し安全な後方地帯へと逃げ込んだ。
インパール作戦失敗の結果ビルマを失うこととなったが、これに対し「攻勢に出たからビルマを失うだけで済んだ、インパール作戦が無かったら東南アジア全部を失っていた筈だ」と自己弁護に終始した。

撃つに弾なく今や豪雨と泥濘の中に傷病と飢餓の為に戦闘力を失うに至れり。第一線部隊をして、此れに立ち至らしめたるものは実に軍と牟田口の無能の為なり
(第15師団長山内正文の戦闘詳報)

インパール作戦失敗後、自ら建立した遥拝所に幹部将校を集めて懇々と一時間以上に渡って訓示を行ったが、幹部将校達は栄養失調で立っていることができず、バタバタと倒れた。
将兵からは「馬鹿な大将、敵より怖い」と罵られ、「鬼畜の牟田口」と呼ばれていたと伝わる。陸軍悪玉論では、常に悪玉の筆頭に挙げられている
-------------------------------------------
[44860] 牟田口 投稿者:フリー
投稿日:2008/01/08(Tue) 02:17

そもそも牟田口は第18師団長時代は国境を越えてインドに攻め入ることに反対していた。その理由は険しい山々を越えて進軍することは不可能であると言う判断であったが、イギリス軍が空挺部隊をビルマに投入し各地で破壊工作を行っていたことを「英軍は山を徒歩で越えて進軍してきたもの」と思い込み「向こうからやってくることが出来るのならば、こちらからも行くことは出来る」と判断してしまったという。

第31師団隷下第31歩兵団(団長:宮崎繁三郎少将)所属第138連隊長だった鳥飼恒男陸軍大佐は、中突進隊として、インパール作戦に参加したが、第15軍司令官牟田口廉也中将は、補給を無視した無謀な突進命令を発したことから、部隊内では、「無茶口(ムチャグチ)」と呼ばれることがあったと、戦後、親族に語っている。
故人の名誉に関わるが、日本軍史上、現代に至るまでこれほど酷評され、擁護する人間がいないのは、将官、将校では稀有な存在である

次は東京裁判で絞首刑に処せられた木村兵太郎について語ります。

http://www2.025.ne.jp/~sosi/cgi/bbs/light.cgi

インパール作戦
http://sidenkai21.cocot.jp/m388.html
牟田口廉也
http://www.sinzirarenai.com/persons/mutaguchi.html

[44874] 陸軍大将木村兵太郎
投稿者:フリー 投稿日:2008/01/10(Thu) 21:55

木村兵太郎(きむら へいたろう、1888年9月28日 - 1948年12月23日)は、昭和期の陸軍軍人、陸軍大将。通称「ビルマの屠殺者」。 太平洋戦争後、A級戦犯として逮捕、極東国際軍事裁判にて死刑の判決を受ける。1978年、靖国神社に合祀された。
埼玉県出身。広島一中、広島陸軍地方幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学校卒。1940年関東軍参謀長。1941年4月から1943年3月まで陸軍次官。1944年8月ビルマ方面軍司令官。
----------------------------------------------
[44875] 木村兵太郎 投稿者:フリー
投稿日:2008/01/10(Thu) 22:01

木村は1948年12月23日、判決に従い絞首刑に処せられた。死刑判決を受けた理由は、第3次近衛内閣・東条内閣で東条陸軍大臣の下で次官を務めていたこと(東条英機の権力掌握時に木村と武藤章が陸軍中枢の権力を握っていた)によるものが大きい。(東条英機が失脚後の1944年(昭和19年)にビルマ方面軍司令官の任に就いたが、軍司令官としての行動については、訴因として挙げられておらず、あくまで陸軍次官在職時の責任のみが追及されている。

訴因の中に「英国に対する大東亜戦争遂行」という項目があるが、これは28名のA級戦犯すべて(民間人であった大川周明さえも)に適用された訴因であり、ビルマ方面軍司令官としての責任を問うたものではない。検察側は個人諭告において「ビルマの屠殺者」との言葉を用いたが、訴因とは直接関係の無い発言であった。)

連合国側からは日本の陸軍次官職について欧米並みの政治的権限を持つと考えられ(特に陸軍大臣が総理大臣の兼務であった事もその見解を強めた)、実際以上にその権限を過大評価されていたとする見方もある。
また、英国との戦いでは、前任の河辺正三の方が主として行ったにもかかわらず、河辺正三は昭和40年、インパール作戦の指揮官第15軍司令官牟田口廉也が昭和41年まで生きたことと比較すると、彼は運が悪いという意見もあるが、上記のようにビルマ方面軍司令官として訴追・処刑されたわけではないので、河辺・牟田口との比較は意味が無い。

なお、木村に対する11人の判事の投票行動であるが、被告全員の無罪を主張したインド判事を除いた10人が有罪とし、アメリカ、イギリス、中国、フィリピン、ニュージーランド、カナダ、オランダの7人の判事が死刑賛成であり、東條、土肥原、松井、武藤、板垣と並んで、最も死刑賛成の投票が多かった(木村以外の5名も、前述の7人と同じ判事が死刑賛成に投票している)。

一方、日本側では木村が死刑になる可能性は少ないとの意見が支配的であり、新聞記者や弁護人、他の被告の家族に至るまで、木村大将は心配は無いとの見解を可縫夫人に伝えていた。しかしながら木村自身は裁判の趣旨から非命を予想していたらしく、判決前日の面会の際に2人の子供を連れて来ず、楽観論を述べた夫人に対し、「この裁判をどう考えているのか。はじめから結論はついている裁判なんだ。そんなに甘いもんじゃない」と述べている。
ちなみに、木村は東京裁判において自身による弁論を一切行わなかったため、公判記録には木村の発言は何も記録されていない。
---------------------------------------------
[44876] 木村兵太郎 投稿者:フリー
投稿日:2008/01/10(Thu) 22:06

イギリス軍の総攻撃が開始され、ビルマの防衛が危機に瀕していた昭和20年4月23日、木村は前線で苦戦する隷下部隊や、日本が支援したビルマ政府のバー・モウ首相、自由インド仮政府のチャンドラ・ボース主席、石射猪太郎大使以下日本大使館員及び民間の在留邦人等を置き捨てて、幕僚や篤志看護婦と銘打った芸者とともに飛行機でラングーンを脱出、タイとの国境に近いモールメンへ撤退した。(皮肉なことに撤退行の最中に大将に昇進している)
取り残された人々は、陸路で脱出を試みたが、多くの犠牲者を出した。(この時、チャンドラ・ボースは常にインド国民軍部隊の殿を歩き、渡河を行うときなどは、最後の兵が渡河を終えるまで川岸を離れなかったという。)

ラングーン放棄の10日前の4月13日、ラングーン北西部の防衛戦を指揮していた第28軍司令官桜井省三中将は、木村に対し、「戦局の推移が迅速でいつラングーンが戦場になるかもわからない。ラングーンが攻撃されてから方面軍司令官が移動しては逃げ出したことになり、作戦指導上困難が生ずる」として、「方面軍司令部を速やかにシヤン高原に前進させ、第一線で作戦を指導すべき」と進言したが、木村はこれを却下した。
同様に田中新一方面軍参謀長も「方面軍司令部は敢然としてラングーンに踏みとどまり、いまや各方面で破綻に瀕しつつある方面軍統帥の現実的かつ精神的中心たるの存在を、方面軍自らラングーンを確保することにより明らかにすべき」と主張していたが、司令部の撤退は田中参謀長の出張中に決定された。

木村を含めたビルマ方面軍司令部の唐突なラングーン放棄により、方面軍の指揮命令系統は大混乱に陥り、イラワジ河西部でイギリス軍と激戦中だった第28軍は敵中に孤立してしまい、後に脱出する過程で半数以上が死亡するという大きなな犠牲を払うことになった。
---------------------------------------------
[44877] 木村兵太郎 投稿者:フリー
投稿日:2008/01/10(Thu) 22:16

ビルマ戦役における日本軍の戦死者は約14万4千人に達するが、悲惨を極めたと言われるインパール作戦における戦死者は1万8千人と12.5%であり、戦死者の約52%がこの最終段階で発生していることを考えれば、我が身を逃がすために必要な指揮を怠り、バー・モウやチャンドラ・ボースといった日本と盟友関係にある外国要人や在留邦人の保護義務も果たさなかった木村の軍人としての責任についてはビルマ戦役の生還者を中心に厳しい批判がなされている
次回は富永恭次についてやります。

http://www2.025.ne.jp/~sosi/cgi/bbs/light.cgi

[44893] 敵前逃亡 富永恭次 投稿者:フリー
投稿日:2008/01/13(Sun) 21:01

冨永恭次(とみなが きょうじ、1892年1月2日 - 1960年1月14日)は長崎県出身の大日本帝国の陸軍中将。陸軍士官学校第25期。陸軍大学校35期。陸軍特攻隊の創設者。海軍中佐富永謙吾の兄である。また長男靖は特攻隊として出撃し、戦死している
1939年9月に参謀本部第一部長に就任するが北部仏印進駐時の専断が咎められ左遷される。のち1941年4月に陸軍省人事局長として中央に復帰、東條英機の腰巾着のあだ名を持つ。1943年3月陸軍次官と兼任、東條内閣総辞職と共に失脚。1944年8月、新陸相杉山元によって第4航空軍司令官に転出させられる、9月8日マニラに着任した。杉山が「やっといい口があったので富永を出せた」と言っていたという証言もあり、左遷であったことは疑いない
---------------------------------------------
[44894] 富永恭次 投稿者:フリー
投稿日:2008/01/13(Sun) 21:07

フィリピンに赴任した冨永はフィリピン決戦において陸軍初の航空特別攻撃隊の出撃命令を出すこととなる。特攻隊出撃前の訓示では「諸君はすでに神である。君らだけを行かせはしない。最後の一戦で本官も特攻する」と言い、一方で帰還した特攻隊員は容赦なく罵倒して、62回に亘って約400機の特攻を命令しパイロット達を全員戦死させた。

こうして戦勢の不利が明白となった、1945年1月16日、マニラから引き上げてきた司令部要員の大半をエチャーゲの南5キロにあるサンチャゴに足止めさせている間に、司令官、参謀などの高級将校たちは、残り少ない戦闘機を駆り出して護衛を命じ、フィリピンのエチャーゲ南飛行場から台湾台北へと続々と逃亡した。積み荷はウィスキーと芸者たちであったという。これを知った残された約1万の第4航軍の将兵は唖然として語る言葉もなかった。 冨永に見捨てられた兵たちは地上部隊に編成替えされ脆弱な歩兵部隊となってその大半が戦死した。

その後、冨永は胃潰瘍の診断書を提出して温泉療養に専念し、十分に英気を養う。2月13日、大本営は第4航空軍司令部の解体を発令した。これが悪名高い「富永恭次の敵前逃亡」である。太平洋戦争においてはマッカーサーも敵軍を前にして脱出しているが、マッカーサーが正式な命令を受けて脱出したのに対して富永は明らかに軍規違反であり、軍規に則れば銃殺刑の敵前逃亡であった。これは現在に至るまで批判されている
---------------------------------------------
[44895] 富永恭次 投稿者:フリー
投稿日:2008/01/13(Sun) 21:13

台湾への移動は一応口実をつけてはいたものの、上官である第14方面軍司令官の山下奉文大将にも無断でおこなわれるなど、誰が見ても敵前逃亡そのものであった。事後承諾を求めに行った参謀に対し、山下大将は「部下を置き去りにして逃げるような奴に何ができるか!」と面罵したという。本来であれば軍法会議が行われるべきところ、暫く何の処分も下されなかったが、流石に陸軍中央でも問題になり、1945年2月23日待命、5月5日予備役編入の処置がとられた。
しかし、「死ぬのが怖くて逃げてきた人間を予備役にして戦争から解放するのはおかしいのではないか」という声があり、7月に召集し、第139師団の師団長として満州の敦化(とんか)に赴かせた。この部隊は関東軍の主力が南方に転出した後の穴埋め用根こそぎ動員部隊の一つである。8月ソ連参戦、そして終戦ののち富永はシベリアのハバロフスク収容所に抑留され、1955年4月18日引揚船の興安丸で舞鶴港に帰国している。

次は最終回。
陸軍中枢の巨悪辻政信についてやります。

http://www2.025.ne.jp/~sosi/cgi/bbs/light.cgi

沖縄2紙と朝日新聞が受賞=新聞労連ジャーナリスト大賞
1月11日18時1分配信 時事通信

 日本新聞労連は11日、昨年1年間に平和・民主主義の確立や、言論・報道の自由に貢献した記事を表彰する「第12回新聞労連ジャーナリスト大賞」に、琉球新報と沖縄タイムス両紙の教科書検定をめぐるキャンペーンと、朝日新聞の連載「新聞と戦争」を選定したと発表した。
 沖縄2紙は、教科書検定で沖縄戦における集団自決について、日本軍強制の記述が削除された問題を追及。朝日新聞は新聞の戦争責任を直視し、「負の歴史」を検証した点が評価された。
 優秀賞は熊本日日新聞の連載「水俣病50年」と信濃毎日新聞の連載「必要か 青少年条例」が受賞。昨年創設された「第2回疋田桂一郎賞」には、毎日新聞社会部・工藤哲記者の「離婚後300日規定問題」キャンペーン、在宅ホスピスの家族らを写真に収めた下野新聞写真部・近藤文則カメラマンが選ばれた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080111-00000122-jij-soci

2008/01/15 創価「疫病神」か
http://specialnotes.blog77.fc2.com/blog-entry-1297.html

by huttonde | 2008-01-08 12:45 | 外患誘致・犯罪教唆・幇助 | Comments(2)
Commented by ざんぶろんぞ at 2008-01-09 23:25 x
あけましておめでたいです。
(此処二ヶ月の状態、簡易に紹介)
11月後半ハードディスククラッシュ
一週間後に二号機購入(廉価版 ジム)
安いわけでソフトがほとんど入っていないorz
一号機復活!
ハードディスククラッシュなのでソフト再インストール
再登録(暗証番号捜索)
リンク再構築
やっと「風に吹かれてすっ飛んで、、、」を見つける
(タイトルを間違って探してたよ、、)

やっと普通に書き込める環境に回復、、

ってなわけでまたよろしくな!
Commented by huttonde at 2008-01-10 10:26
ざんぶろんぞさん、ごぶさたです、って
俺の返しはいつも同じでした><

泣きたくなるような事態だったわけですね。
俺もそうなったらどうしよなんて気にしない。去年壊れたし。
その時はまたその時。

ごぶさたといえば、シスコさんて人もすっかりいなくなってしもた。
以前何度かコメントくれたnoboriさんも行方不明、
バナナ通信のあんちゃんはどうしてんだか、極東情報の
usamさんも死んじまったようで、サウラビさんも疲れたのかな。

たまにはまた義理で書き込んで下さい。

でも俺はよそに義理欠いてた(^Д^)
義理欠いてネタ書く。これほんと。
<< 沸々と鬱々 俺の方が楽太郎 >>